2021年12月19日「世に来られた救い主」ルカ2:8〜12

序−驚くべきことに、世界中でクリスマスを祝っているのに、クリスマスを祝わない教会があるというのです。過去教会がクリスマスを祝わない時代もありました。なぜなのでしょうか。それを知ることを通して、クリスマスの意味と意義を確認したいと思います。

T−クリスマスをしない教会−
 イエス様の誕生は12月25日ではないし、その日は異教の祭日だからクリスマスを祝わないという人々がいます。確かに、クリスマスを12月25日に祝うようになったのは、AD350年に教皇ユリウス1世が太陽神の祭りを人々がしないように、その日をクリスマスは定めたことに始まるとされています。冬至を過ぎると太陽はまた高くなり日が長くなって行きます。闇に勝利する真の光であるイエス様が来られた日ということでイエス様の誕生日と決めたそうです。意義ある理由付けです。ヨハネ1:9。
 今日のルカ2:8〜9では、羊飼いたちが野宿で夜番をしていたとあります。この地方では、11月〜3月まで雨期です。雨が多く寒くて、夜野原で寝ることは難しいです。エレミヤ36:22。雨期の最中、夜空を見ることは難しいでしょう。12月は草がないので、放牧にも適しません。ですから、ルカ2:8〜9の様子は、5月か6月と思われます。
 そもそも、聖書はその日がいつかとは教えていません。初代教会時代にも、クリスマスがされたという記録はありません。ただ、聖書は、救い主イエス様が世に来られたことは、繰り返し忠実に伝えています。ですから、イエス様の降誕は重要なことですが、誕生日は重要なことではありません。救い主イエス様が生まれた、つまり来られたことを覚えることが大切です。言ってみれば、イエス様の復活を記念して日曜日に礼拝をしているように、毎週ごとに主イエス様が世に来られたことを覚えることが重要です。クリスマスが単なる形式的行事と化してしまうなら問題ですが、クリスマスに救い主イエス様の降誕を思い巡らすことが必要です。
 そして、16世紀の宗教改革者と17世紀の清教徒においては、一時期クリスマス廃止の決定がされました。その日がそれまでは過度に偶像化されており、中世の教会の迷信的な影響に対する反発と迷信から聖徒たちを守るという理由からでした。宗教改革が聖書に復帰することだったので、御言葉に記されていないからと理由もありました。もちろん、クリスマスは祝わないが、イエス様の誕生は大切に覚えました。聖書に、はっきり「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と記されているからです。ルカ2:11。
 ですから、クリスマスの日にちより、クリスマスの意味が重要です。罪に汚れた被造物に過ぎない人間に、栄光の救い主なるイエス様が祝ってもらわなければならない謂れはなく、祝うように求めてもいません。なぜ、救い主イエス様が世に来られたのか、その意義と意味を知るようにも求められています。

U−イエス様が来られた理由−ヘブル9:26, ヨハネ1:29
 クリスマスにしなければならないことは、誕生日を祝うよりも、イエス様が世にお生まれになられた、イエス様が世に来られたことの意味と意義を覚えることです。イエス様は何のために世に来られたのでしょう。ヘブル9:26。イエス様は、私たちの罪を取り除くために来られました。ヨハネ1:29。神の御子が世に来られたというのは、神が肉を着て世に来られたということで、神学用語でイエス様の受肉(incarnation)と言われています。
 私たちの罪を取り除き、罪の結果である滅びから救い出し、天国への命を与えるために来られました。なぜ、ヨハネ1:29でイエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言っているのでしょうか。昔人々が自分たちの罪を赦してもらうために小羊をほふって神にささげました。ヘブル9:26でイエス様は、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために来られたと言っています。イエス様は、私たちの罪のために十字架上で死なれ、私たちの身代わりとなられました。Tペテロ3:18。
 11節では、イエス様のことを「救い主がお生まれになられた」と言い、「キリスト」と言っています。イエスは名前ですが、キリストは救い主という称号です。イエス様が救い主として来られたという意味があります。イエス様は、私やあなたを救うために来られたということです。
 聖書は、私たちの罪を「そむきの罪」と言っています。詩篇32:5,51:1。私たちが、私たちを造られ、私たちを愛された神様にそむいたことから、もろもろの罪が生じて来るのです。社会の問題、家庭の問題、自分の人生の問題が、そむきの罪から生じているのですから、聖書は、悔い改めて、神に立ち返って来るように勧めています。しかし、罪の問題は、人が認めたくない不都合な真実です。素直になって考えてみれば、理性と経験を通して、自分の本性がどれほど汚れて、醜いものが分かっています。
 ただ、それを認めることを嫌なだけです。表面は、教養と知性と倫理で化粧しています。もちろん、神にそむいているので、どんなことでも罪とは考えようとしません。何かがあれば、人のせいにして社会のせいにして、恨むだけです。自分の思い通り事が行かないと怒り、文句を言うだけです。そんな人生は、空しいし、苦しいです。自分がなぜ生まれて来たかも知らず、人生をどのように生きて行くのかも分からず、不安と恐れを抱きながら、生きることになります。
 しかし、創造主なる神様は、そんな人間を憐れんで愛してくださり、神の御子を世に遣わされました。イエス様は、罪人を救うために世に来られたということは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。Tテモテ1:15。素直にイエス様を自分の救い主と信じて、救いの恵みを受けられることを願います。救い主が来られたことを信じて、十字架による救いを受けるならば、人生が変わります。罪の赦しと天国への命を受けるだけでなく、救いの恵みと祝福を受けながら人生を生きるようになります。
 イエス様の十字架の犠牲を覚えるなら、クリスマスは、嬉しい日ではなくて、悲しい日です。私たちのたましいの救いのために十字架にかかり血を流されるからです。それでも、救い主が世に来てくださったことは、感謝すべきあり、喜びです。こういうことを覚えるのが、クリスマスの意味であり、意義なのです。今日、教会やクリスチャンがクリスマスにイエス様のご降誕を祝ったとしても、イエス様がなぜ世に来られたのかを考えないとしたら、どうでしょう。クリスマスが、救い主イエス様の誕生の意味を思い巡らし、イエス様と自分の関係を新たにする日となりますように。

V−クリスマス、やはり祝う意味がある−
 クリスマスは聖書にはないですから、祝わなくてはいけないものでは全然ないのですが、クリスマスに「主イエス様の御業を思い起こす」ことは、とても大切なことです。聖餐式がまさに「覚えて行う」という霊的営みを行っているように、クリスマスも過ごすのです。クリスマスとは、主の誕生日ではなく、イエス様が来られて成し遂げられた偉大な救いを喜び、感謝して、賛美するものです。クリスマスの定義は、イエス様の誕生日祝いではなく、救い主が来られた記念の祭日と言ってよいでしょう。
 初期のアメリカにおいては、清教徒によってクリスマスが禁止されていましたが、独立後は徐々にクリスマスを祝うようになり、19世紀半ば以降は、商業主義の影響もあり、クリスマスが盛んに行われるようになりました。日本では、16世紀にイエズス会の宣教師たちによって持ち込まれたのが、始まりで、周防の国でザビエルが最初に行ったと言われています。その後、明治33年に明治屋が銀座でクリスマスの飾りをしてから広がり始めました。面白いことに、俳人正岡子規が明治時代にクリスマスの俳句を作っています。クリスマスは、カタカナ季語の第1号となりました。
 不思議なことに、アメリカではクリスチャン以外の人はほとんどクリスマスを祝わないそうですが、日本では今日多くの人々がその中味は別としてクリスマスを祝っています。確かに商業主義に乗せられているのは、否めないことではありますが、人々がキリスト教に好感を持っており、何かしら心に求める思いがあるからではないでしょうか。クリスマスに教会に初めて来る人やクリスマスにイエス様に出会った人も多いです。
 そもそも、始めに12月25日にクリスマスをするようになったのは、冬至の日、人々が太陽神の祭りに行かないで、救い主イエス様を覚えるようにするという古代の宣教目的のためでした。今日、これだけ世界中でクリスマスを祝ってくれています。日本でも、確かに商業主義からではあるし、信仰のこととは無関係のことに利用されていますが、クリスマスを「覚えて」くれることは歓迎すべきことであり、感謝したいです。現代でも、クリスマスが宣教の機会であることは変わりありません。人々がクリスマスをきっかけに救い主を求め、教会に来てくれることを願います。
 私たちは、クリスマスをどう過ごすのでしょうか。クリスマスにおいて、むしろクリスマスにまつわる聖書的な奥深い背景を知り、イエス様が来られた本当の意味を覚える時となればいいですね。日本の年末は、人々がせわしく動き回り、騒ぐ時期ですが、私たちは心静かに救い主イエス様が来られた意味を黙想して、感謝し、心をイエス様に向け、改めて人生を思う時にしたいものです。Tテモテ1:15。




ルカ2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」


ヨハネ1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

ヘブル9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

Tテモテ1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

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