2021年12月26日「ひとかたならず慰められた」使徒20:7〜12

序−科学や歴史において、新資料や新説を知って、それまでの認識が覆されるということがあります。今日の箇所も、説教中に居眠りした人が窓から落ちた事件から、礼拝で眠らないようになどと流布されていますが、もっと大事なことが教えられています。トロアスの教会で起こった事件を通して、聖徒たちが受けた慰めを学びます。

T−人々と語り合い、夜中まで語り続けた−6〜7
 ユダヤ人の陰謀のために行き先変更をして、マケドニアから小アジアのトロアスに上陸しました。3,5節。そこでの出来事です。このトロアスの教会は、パウロが宣教してできた教会ではないので、聖徒たちは皆パウロから話を聞きたがっていたし、パウロも聖徒たちと交わり、御言葉を伝えたかったのです。ですから、6〜7節を見ると、パウロは、トロアスの聖徒たちと共に礼拝をささげるために、七日間滞在したことが分かります。次の日には出発する予定でした。11節。ですから、トロアスの聖徒たちも、熱心に礼拝に集まり、長い時間御言葉を聞くことになります。
 7節に、「週の初めの日に」とありますが、すでに土曜日の安息日ではなく、日曜日に礼拝を守るようになっています。なぜ、初代教会で、それまでの土曜日安息日に礼拝をささげるのでなく、日曜日にするようになったのでしょう。イエス様が復活された日だからです。マタイ28:1。6節に「種なしパンの祭りの後」とありますが、これも、過越しの祭りに続くものです。出エジプトの時、家の門と鴨居に小羊の血を塗ることで、神の裁きを免れたことを記念する祭りであり、イエス様の犠牲による救いの預言でした。ですから、ここでは、救い、命ということが強調されています。
 この時は、人々と交わり、質問があり、分かち合いもあり、パウロも質問に答え、御言葉を伝えました。御言葉は重要です。御言葉は、命のみことばです。ピリピ2:16。聖徒は、御言葉を食べて生きて行く者です。御言葉を食べなければ、生き生きとして霊的命はありません。パウロは、明日には出発し、もう会えないので、切実に福音を伝えたかったし、与えられた機会を用いてできる限り御言葉を伝えたかったのです。トロアスの聖徒たちも、パウロが出発し、明日にはもう会えないということで、切実に御言葉を聞きたかったし、分かち合いたかったのです。
 なぜ、夜中までになったのでしょう。7節。朝から集まっていなかったのでしょうか。日曜日が休みになるのは、かなり時代が下ってからのことです。人々は、一日の生活や労働を終えて、夜に集まって来ました。聖徒たちは、一週間の労働の疲れや生活の問題をもって礼拝に来ていました。多くの人が忙しさや疲れの中にあり、問題や事件を持っていたけれども、それが礼拝に集まる熱心を妨げることにはなりませんでした。ヘブル10:25。
 聖徒たちは、奴隷や召使いのような人々が多かったのです。忙しく働き、とても疲れていました。忙しいし、疲れているというのは、現代社会のことだけではありません。でも、聖徒たちは、忙しいし、疲れているから、問題や悩みがあるから、なおのこと熱心に礼拝に集まって来ました。礼拝を通して霊的命を与えられるからです。

U−心配することはない。まだいのちがあります−8〜10
 疲れをおして出席し、パウロの話や話し合いが長く続くものですから、ある人が疲れすぎて、眠ってしまい、窓から落ちるという事件が起きました。8〜9節。聖徒たちが大勢集まっていた屋上の間には、たくさんの灯りがついていましたから、酸欠状態だったでしょう。ユテコは、青年と訳されていますが、厳密には青少年、現代で言えば中高生くらいの若者です。一日の重労働はからだにこたえました。
 ユテコは、一日中働いて、痛んだ体で来ています。人々が次々と質問し、パウロが長く話すので、眠気におそわれ、窓から外に落ちてしまいました。始めはひどく眠けがさしても耐えていたのですが、とうとう眠り込んでしまいました。疲れて、眠かったけれども、家に帰るのではなく、礼拝に来ました。眠るまいと窓に座ったのかもしれません。酸欠と疲れの悪条件の中で眠気と戦いながら、御言葉を聞こうとしていたのです。これもまた、礼拝への熱心の姿です。
 ですから、この時、窓から落ちて死んでしまったユテコを、神様はパウロを通して生かしてくださいました。この時の「彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて」というパウロのやり方は、預言者エリヤやエリシャと同じです。T列王17:21,U列王。ですから、神様の御力がユテコを覆い、神様が生かしてくださったということです。
 礼拝が霊的命と癒しを与える場であることを、如実に示してくれた出来事でした。礼拝には、癒しがあります。私たちは、人生を生きて行く中で、肉体が病気になる時があり、心の病を持つ時もあります。礼拝は、霊的命を与える栄光の時です。礼拝のある信仰生活は、私たちがいつものように一週間を過ごし、ただ日曜日だから礼拝に出て、また一週間何も変わらずに生きて行くというものではありません。礼拝や集会は、主の前に集まり、御言葉で養われ、霊的命を与えられ、自分を主にささげて行くものです。
 私たちも、一週間労働や生活の中で疲弊し、様々な問題や事件に翻弄されて、悩みと不安、苦しみと葛藤をもって主の前に出て来ます。それが、礼拝の時間であり、兄弟姉妹と共に神の前に来る大切な場です。複雑な社会で心が乱され、不安や葛藤に押しつぶされ、心が死にそうになりながら来て、再び生き返り、勝利して行くのが礼拝です。霊的命が与えられて再び生きるようになり、人生が変わって行くのが、礼拝です。ですから、私たちの人生を苦しみと暗さが覆うとしても、礼拝へ出て行くのです。
 この時、パウロは、「心配することはない。まだいのちがあります」と言いました。大きな試練に出会って、聖徒たちが騒いだようです。この事件に驚き、あれこれ言う人もいるでしょう。「教会なのに、こんな事件が起きるなんて。何か悪いことをしたせいなのか。あいつはいつも居眠りしているからだ」などと言って騒ぐ人が出て来る場面です。しかし、パウロは、騒がないでと言い、神様に祈り、信頼し、癒しをしました。
 私たち個人にとっても、何か事件や問題が起きると、「どうして私にこんなことが。何か悪いことでもしたのか。神様は見捨てているのか。あいつのせいだ」などが口から出て来るかもしれません。事件や問題が起きる時こそ、主に拠り頼み、神様を全面的に信頼するようになる機会なのです。そうしてこそ、試みや罪に陥ることから助け出され、すべてを益としてくださる神様の導きと助けを経験することになります。ローマ8:28。

V−命あふれる礼拝−11〜12
 この時、ユテコの癒しを経験した聖徒たちは、この後何をしたのでしょう。11〜12節。パウロの祈りによって若者が癒された事件は、聖徒たちにとって忘れられない恵みの体験となりました。大きな慰めを与えられました。教会でも、聖徒たちの人生においても、様々な問題が生じるものです。もしその時、肉的な思いに囚われて騒ぐとしたら、むしろ試みに翻弄され、試練は増加してしまうでしょう。試練があるとしても、聖徒たちの取るべき態度は、主を信頼して祈ることです。問題や事件の中でも、礼拝し、神のみ前に出ることです。主からの慰めを受けるようになります。
 10節を見ると、この事件の後、聖徒たちは驚くべき信仰の姿を見せています。何をしていますか。「パンを裂く」とは、聖餐式のことです。そもそも、週の初めの日に、彼らはパンを裂くために集まっていたのです。7節。こんな事件の後なのに、忘れずに聖餐式を行っています。いや、この癒しを通して、イエス様の犠牲によって命が与えられていることを改めて覚えて、聖餐式をしたのです。
 聖餐式は、何のためにしますか。イエス様が私たちの救いのために、私たちの罪が赦され、天国への命が与えられるために代わりに十字架にかかられたことを覚えるためです。ルカ22:19〜20,Tコリント11:24〜25。ですから、聖餐式をすることは、イエス様の尊い犠牲でもって、新しい命が与えられていることを覚えて、感謝する時でもあります。
 人は肉体の命だけ考えますが、聖徒たちは、霊的命を必要とします。霊的命を与えられてこそ、人は真に生きるものとなります。命の根源である神様から命をいただかなければなりません。礼拝は、まことの命を与えられる時です。私たちは、礼拝を通して、霊的命を与えられなければなりません。聖徒たちは、イエス様の復活を記念して、週の初めの日を主の日として礼拝するようになりました。礼拝は、救われた命を覚える時です。
 礼拝の中心は御言葉であり、礼拝では御言葉が必ず語られます。礼拝には、命の言葉があります。御言葉を通して、たましいが癒され、こころの健康を取り戻し、その影響は肉体にも及びます。礼拝をしなくなることは、命が弱まる道であり、試みが増加する道であり、神様の癒しと恵みを受けられなくなる道です。方向転換しなければなりません。
 礼拝は命です。礼拝が私たちを生かす道です。何よりも、熱心に集まり、忙しい生活、労働の疲れの中でも、熱心に礼拝を持っていた聖徒たちがこのような命溢れる礼拝を体験することができました。祈りの力、御言葉の養い、聖餐の恵みのある礼拝を通して霊的命を与えられ、育まれ、救いによって与えられた新しい命によって生きて行く一人ひとりとなることを願います。Tヨハネ5:11〜12。



使徒20:6 私たちは種なしパンの祭りの後にピリピから船出した。五日のうちに、トロアスにいる彼らのことろに行き、そこで七日間滞在した。
20:7 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。パウロは翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
20:8 私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんついていた。
20:9 ユテコという名の一人の青年が、窓のところに腰掛けていたが、パウロの話が長く続くので、ひどく眠けがさし、とうとう眠り込んで三階から下に落ちてしまった。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
20:10 しかし、パウロは降りて行って彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。
20:11 そして、また上がって行ってパンを裂いて食べ、明け方まで長く語り合って、それから出発した。
20:12 人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた。


ヘブル10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

Tヨハネ5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

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