2024年1月21日「神のしもべイエス様」イザヤ52:13〜15
序−人は、認められたいし、できれば尊敬されたいものです。何かのことで批判されたり、侮られたりすれば、落ち込んでしまうこともあります。今日の箇所に登場する神のしもべの姿を通して、そんなことへの慰めと励ましを学びたいと思います。
T−神のしもべは高められて上げられる−13
次の章のイザヤ53章は、有名な苦難のしもべ、つまり十字架のイエス様を預言したものです。しかし、今日の52章13〜15節は、53章の序論となっており、53章をまとめたものです。まず、「見よ」と言って、注意を喚起しています。これから告げる「神のしもべ」のことを注意して聞きなさいということです。読む私たちを集中させて、何を語ろうとしているのでしょうか。
まず、神様が苦難のしもべを高くされたことが強調されています。13節。この1節の中に「栄える」「高められ」「上げられ」「高くなる」と、原語では同じような意味の別の単語を使いながら繰り返しています。「きわめて」と付け加えられています。どれほど高くされたのでしょうか。苦難のしもべとしての働きを終えて、昇天され、すべての権威と権力をもって神の右の座におられることを預言したことです。ヘブル3:22。
苦難のしもべが十字架に苦しみ死なれ、神様は、苦難のしもべ、すなわちイエス様を尊い方とされました。ピリピ2:9〜11の箇所を思い出させます。イエス様を十字架から復活させて、高くされて、すべての名にまさる救い主の名を与えられ、すべてのものがひざをかがめて、褒め称える栄光を与えられました。
そうです。イエス様は、元来神の御子であるので、神の御姿であられたのです。ピリピ2:6〜8。それなのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、十字架の死にまでも従われました。それゆえ、神様はイエス様を高くされ、栄光をお与えになりました。
では、私たちもイエス様のようにへりくだって神様のみこころを成して行くなら、神様は私たちをどうしてくださるのでしょうか。ヤコブ4:10「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます」。Tペテロ5:6「 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださいます」。ですから、皆さん、高くなることを考える前に、自分を低くして、へりくだって仕えてみてください。
私たちも、イエス様を信じて救われて、神の子どもとされる特権を与えられました。ヨハネ1:12。神様は、私たち神の民に対して、「高価で尊い」と言ってくださいます。イザヤ43:4。私たち聖徒たちは、自分は神によって高くされた者だという自分の尊厳をしっかり持つべきです。クリスチャンとしての尊厳を持って人々の評価や批判を受け止め、問題に取り組むのです。
この箇所は、高くされた栄光の神のしもべを見せることで、私たちに何を語られておられるのでしょう。人々の間で、頑張っても認められず、低く扱われ、時には批判され、軽く見られる、そんな中で葛藤する聖徒たちに、「あなたは高価で尊い者だ、神の子どもだ」という高くされていることを思い出させているのです。
U−多くの者神のしもべを見て驚いた−14
神のしもべが何をしたので、それほどに高くされたのでしょうか。高くされることは、その前に低くされたことが前提となっています。高くされる前の神のしもべの姿を13節で見せています。これは、受難のしもべの様子を知らせていますが、多くの者がその姿を見て驚いたとあります。「驚いた」という言葉は、愕然とする、驚愕するという意味で、もう精神を失うというくらいの言葉です。
どうして神のしもべを見た人々が精神を失うくらい驚愕したのでしょうか。その顔だちが損なわれていて、普通の人のようではなかったからです。どうしてこんなに凄惨な姿を見せているのだろうか。一体何をしたからこんな恐ろしい姿となったのだろうか。 人がこのような恐ろしい死を迎えることができるのだろうか。そのように、神のしもべ、イエス様の十字架を見つめた人々は考えたのです。私たちが実際にイエス様の十字架を見たなら、どれほど驚愕することでしょうか。
それで、苦難のしもべを見た人々は考えました。このような壮絶な死を迎えるなんて、きっと神の呪いを受けたに違いないと、神の恐ろしい怒りをその凄惨な姿に見たのです。そうです。それがイエス様の十字架です。十字架にかけられたイエス様は、その恐ろしい神の御怒りを一体に受けて死なれたのです。苦難のしもべイエス様が十字架にかかって、その恐ろしい呪いの死を受けられたのです。ガラテヤ3:13。
イエス様は、何のために、誰のためにそのような恐ろしいことを受けられたのですか。神の栄光を受けたお方が、なぜそのような凄惨な死にあわれたのですか。人々の罪、私たちの罪の身代わりとなって、神の御怒りと呪いを受けられたのです。私たちの罪をその身に負って、呪いの十字架にかけられたイエス様を見てください。苦難のしもべイエス様の姿は、神の御怒りの裁きを受けることがどれほど恐ろしいかを示しています。
苦難のしもべイエス様は、私たちを罪と裁きから救ってくださるために、代わりにその罰を受けられたのです。十字架上で釘打たれた姿で「どうして私をお見捨てになったのですか」とイエス様は叫ばれました。マタイ27:46。その言葉を繰り返して死なれました。マタイ27:50。それによって、イエス様を信じる者は、罪赦され、神の裁きを免れることを約束してくださいました。
私たちの罪のために栄光のイエス様がこんなにも低くなられ、こんなにも酷い目にあわされ、こんなにも人々に蔑まれことを覚えてください。そのイエス様の十字架の犠牲があったから、私たちは救われ、罪赦され、天国への命が与えられ、神の恵みと守りを受けて生きる者とされているという栄光があるということを忘れないでください。
私たちも、世を生きて行く中で、様々な苦難を受けます。評価されないばかりか、文句や批判を受け、侮られ、低く扱われ、憤慨し、悲しみ、落ち込むことがあるでしょう。しかし、今日のイエス様を思い出してください。イエス様は神の御姿である方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、十字架の苦難までも受けられたゆえに、高くされ、栄光を受けたということを。ピリピ2:6~11。ですから、イエス様を信じて神の子どもとされ、神様が高価で尊いと言われる私たちは、たとい人々に認められず、無視されたり、蔑まれたりしても、やがて高くされる時が来ます。認めてくれる人がいます。神様が、ちょうど良い時に、高くしてくださいます。Tペテロ5:6。
V−多くの国々に血を振りまく−15
いったいイエス様のこのような十字架の姿は、なぜ必要だったのでしょう。なにゆえに、十字架が人々を救う犠牲となったのでしょう。15節には驚く表現が記されています。「彼は多くの国々に血を振りまく」という表現です。「血を振りまく」と訳された言葉は、祭司が祭壇でささげものをする時に、血を振りかけて聖める時に用いられる言葉です。レビ記4:6。民の罪が聖められるために、祭司が供え物とされた羊の血を祭壇に振りかけるという儀式です。
それはまさにイエス様の十字架の意味です。ヘブル9:22,26。イエス様が十字架で血を流すことによってそれを信じる人々の罪を聖めてくださいました。Tペテロ1:2。ずっと昔のイザヤの預言は、まるでゴルゴタの丘で起きたイエス様の十字架の苦難をその時代に来て目撃したかのようです。
ここで、血のふりかけを見た「王たちは彼の前で口をつぐむ」とはどういうことでしょうか。イエス様の十字架の死が、祭司が祭壇で羊の血を振りまくこと行っていた罪の聖めのことだと分かったならば、権威ある者も驚いて口をつぐむしかありません。救い主イエス様の栄光と権威の前に跪かざるをえません。
イエス様は、十字架で血を流すことで世を聖め、復活することですべての敵の口を封じられました。イエス様を侮り、嘲りは意味がないのです。イエス様の救いに与り、御言葉に生きる神の子どもに対する世の侮りや嘲りも意味がありません。イエス様のゆえ勝利していると確信して、御言葉に生きてください。私たちが御言葉を行って生きることが、愚かな人の無知の口を封じることだからです。Tペテロ2:15〜16。たとえ私たちが認められず、侮られ、軽く扱われたとしても、誠実に御言葉に生きて行くことが、その愚かな口を封じることになります。
なぜイエス様の十字架が世の人々の口を封じるのか、15節後半が語っています。この苦難のしもべの十字架と復活の福音が、人々に広がるからです。それまでイエス様の救いを揶揄し、軽んじていた人々が、「告げられていないことを見、聞いたこともないことを悟る」ことになれば、イエス様の十字架を信じて救われ、罪が聖められるからです。証の力です。
私たちは、この十字架と復活の福音を知るのは、ただ教理として理解し、記憶することではありません。私たちがイエス様の十字架と復活を信じることで罪の囚われから脱し、自由を味わうようになったことを経験していくことでなければなりません。Tペテロ1:2。
イザヤ52:13 「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。
52:14 多くの者があなたを見て驚いたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。
52:15 そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らが告げられていないことを見、聞いたこともないことを悟るからだ。」
ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
ヤコブ4:10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。
Tペテロ5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださいます。
ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
ガラテヤ3:13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられる者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
Tペテロ5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
ヘブル9:22 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。また、血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。
9:26 もし同じだとしたら、世の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。
Tペテロ1:2 父なる神の予知のままに、御霊にろる聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
Tペテロ2:15 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
2:16 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
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