2024年2月18日「苦難のしもべの姿」イザヤ53:7〜12
序−先週の水曜日から受難節、レント(四旬節)に入りました。今日の所は、そのイエス様の受難の預言です。使徒8:27〜35で、エルサレムから帰る途中のエチオピアの高官が読んでいたイザヤ書の箇所です。私たちもここからイエス様について学び、その姿を私たちへの適用としましょう。
T−犠牲の羊なるイエス様−7〜12
使徒8:32〜33に引用されているのが、今日の7〜8節です。「屠り場に引かれて行く羊」とイエス様の十字架の苦難が例えられています。イエス様は、犠牲の小羊と呼ばれています。Tペテロ1:19。犠牲、いけにえとは、人の身代わりに羊や牛などを屠ってささげたことです。なぜ、救い主イエス様が犠牲とされる小羊なのでしょうか。7節では「民の背きのために打たれ」、10節では「代償のささげ物」、12節では「人の罪を負い」とありように、イエス様が人々の罪の身代わりに十字架にかかられたからです。
神の御子であるイエス様が私たちの罪のために犠牲とされたので、いえにえの羊に例えられたのです。なぜ羊なのでしょう。犠牲なら牛でも良かったのでしょう。すぐ前の節、イザヤ53:6を見てください。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての者の咎を彼に負わせた。」とあります。罪に翻弄される私たちは、迷い易い羊のようだったからです。自分勝手になって罪を犯してしまうからです。私たちの身代わりとなられたので、私たちと同じようになられたのです。ピリピ2:7。そういうことだったのか、とイエス様の十字架の意味を覚えます。
私たちの罪を背負って、イエス様は十字架に苦しみ、死なれました。どうして、神様はイエス様を私たちの身代わり、犠牲とされたのですか。人が自分のその罪の代償を支払うことができないからです。罪の結果が死だと聖書は教えています。ですから、罪のない神の御子が私たちの身代わり、犠牲の小羊となられたのです。9節。不法を働かず、その口に欺きはなかったイエス様が、私たちの罪をその身に負ったのです。
なぜ、神様は、罪のない御子イエス様に罪を負わせたのでしょうか。神様が私たちを愛してくださったからです。ここに神の愛があります。ヨハネ3:16。ですから、イエス様の十字架を見れば、そこに神の愛があふれているのです。Tヨハネ4:10。
U−黙っていたイエス様−7〜9
イエス様が苦難のしもべとして苦しみを受けた時、どんな姿でしたか。その特徴が記されています。7節。「痛めつけられ、苦しんだが、口を開かなかった。黙っていた」という姿です。実際に、イエス様は、捕まえられて、不当な裁判にかけられた時、そのような姿を見せています。訴えられても、不利な証言をされても黙っていました。ヘロデ王の前に引き出された時も、黙っていました。ルカ23:9~9。十字架にかけられた時、罵り嘲る民衆やローマ兵に対しても黙っていました。ルカ23:9~9。悔しかった、辛かったはすです。しかし、口を開きませんでした。
そして、その口には、欺きがありませんでした。9節。嘘や偽り、ごまかしを言うこともありませんでした。ピラトの裁判の時に、不利な証言をされても、ご自分に利するように抗弁することなく、抗議することなく、黙っていました。マタイ27:13~14。イエス様は口下手なのですか。弁論が上手じゃなかったのですか。いいえ、深い知恵があり、学者たちを言い負かすこともできました。しかし、しませんでした。人々の罪を背負うためには、十字架にかかって、死ななければならなかったからです。
ここで、口を開かないイエス様の姿が強調されています。7節では、「痛めつけられ、苦しんだ、引かれて行く」の動詞は、原文では受動態ですが、「口を開かない」だけは能動態なのです。イエス様は、痛めつけられ、苦しめられていた時も、ご自分は能動的に主体的に口を開かなかったのです。口を開くことができたのに、知恵深く抗弁できたのに、しなかったのです。イエス様を死刑にできる権威がある総督ピラトは解放することを望んでいたので、証言するならば、解放されたでしょう。ルカ23:20。でも、イエス様は、黙っていました。
イエス様は、能動的に積極的に黙っておられたのです。自分の選択によって沈黙を選ばれたのです。この姿を記憶しましょう。イエス様は、まったく口を開かなかったということではありません。ピラトの質問には答えています。ルカ23:3。十字架上でも、色々話しておられます。つまり、訴えや偽証に対しては抗議しなかったということです。
私たちのためにイエス様は苦難を受けられました。それは、私たちのために口を開かなかった、沈黙されたということができます。イエス様のこのような姿を見ていると、私たちはどうだろうかと思ってしまいます。沈黙すべき場面でも、黙っていることができない時がどれほど多いだろうか。ちょっと厳しく言われる時、口を開いて文句を言い、恨みごとを言ってしまうことはないでしょうか。自分を省みず抗議したり、謝ることもしないで言い訳に終始するという姿はどうでしょう。
私たちは、今日の箇所のイエス様の姿を通して何を学ぶのでしょうか。たとえ悔しい時があったとしても、自分が口を開かず黙っていることで事がうまく進んで行くのを願うこともできます。特に、恨みごとや怒りをぶつけることをしないことを願います。本当にイエス様は苦しみました。肉体的にも精神的にも痛めつけられ、苦しめられ、血を流し、死なれました。でも、イエス様は私たちを救うために、口を開きませんでした。
他人に言ってやりたい、言わずにはいられないという時があるでしょう。でも、言わなくても済むことがほとんどです。自分の沽券に関わるとか、自分の肉のプライドが許さないと言うならば、言わなくていいのです。どうしても必要なときには、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えるように言いましょう。エペソ4:29。御言葉から出て来る健全なことばと敬虔にかなう教えを話すのです。Tテモテ6:3。そういう信仰にある言葉で話すことを主にあって願います。
V−10−12
もう一つ、この苦難のしもべのイエス様に特徴的な姿があります。10〜12節。それは、苦難を受けた時イエス様の従順の姿です。イエス様に人々の罪を負わせて、十字架に渡すのは、神様のみこころでした。10節。それに対して、イエス様はどう対処しておられたでしょうか。「自分のいのちを代償のささげ物とする。自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。しもべは彼らの咎を負う。自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちのために、とりなしをする。」というように、自ら、自分から人々の罪を背負い、裁きを担っておられるのです。それは、なぜでしょう。神様がそのように願っておられるからです。10節。神様のみこころに従順だったのです。なぜ、イエス様は、ここまで従順だったのですか。神様に忠実であり、私たちを愛されたからです。ご自分の身をもって人々を救うという使命に従順だったからです。
イエス様の十字架は、神様が罪ある私たちを救うために罪のないイエス様にすべての罪と裁きを負わせ、身代わりとさせたことでした。しかし、イエス様の従順は、強制されたわけでもなく、不服を持ちながら従ったことでもありません。神様の御心に自ら従うことを願っての従順でした。
従順というと、イメージはどうですか。主体性がない、受身的、自分の意志がないなどマイナスイメージでしょうか。イエス様の見せる姿は、そうではありません。救い主としての献身であり、人々を救いたいという情熱であり、ビジョンなのです。ですから、私たちも、従順を考える時、信仰による献身であり、神様から与えられたビジョンであり、神の導きに従いたい情熱でありたいと願います。
苦難のしもべの従順の結果、主のみこころが成し遂げられ、多くの祝福を受け、自分の従順に満足しています。10〜12節。神様は、人々の救いのために十字架の苦難を求められました。イエス様は、それに従いました。強要や屈服ではなく、イエス様の選択でした。ゼッセマネの園での祈りの時、「父よ。あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と願うようにできたのですが、結局は「あなたがお望みになることが行われますように」と願いました。マルコ14:36。
イエス様は、様々な苦しみによって従順を学びました。ヘブル5:8〜9。私たちも、御言葉に聞き従うことや神様の御心に従順になることが求められています。従うか否かは、私たち次第です。私たちが神様に対して従順を選択するなら、神様が働いてくださり、祝福も与えてくださるでしょう。放蕩息子のように、人は自分の思うようにやりたい、自分勝手にしてみたいと願うのですが、放蕩息子のように虚しかったと知るでしょう。
イエス様の人としての姿は、従順に尽きます。ピリピ2:6〜8。「神の御姿である方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、ご自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われた」ので、御名が高められ、褒め称えられることになりました。ピリピ2:9〜11。イエス様は、ご自分を十字架に渡されるほどに私たちを愛してくださいました。その愛に応えて、イエス様の沈黙と従順の姿から学んで、信仰の道を歩み、祝福と恵みを受けたく願います。ピリピ2:6〜8。
イザヤ53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 虐げと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのために打たれ、生ける者の地から絶たれたのだを。
53:9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けれたられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
53:10 しかし、彼を砕いて、病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
53:12 それゆえ、わたしは多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。
Tペテロ1:19 傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
Tヨハネ2:2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。
イザヤ53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての者の咎を彼に負わせた。
マタイ27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王なのか」とイエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
27:12 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。
27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」
27:14 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
エペソ4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。
マルコ14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ。あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
ヘブル5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
5:9 完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって永遠の救いの源となり、
ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
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