2024年3月24日「大いなるあわれみ」イザヤ54:4〜10
序−国が滅ぼされてバビロンに捕囚になった民は、神様が自分たちを拒否されたと感じました。彼らは、拒否されたという痛みと神様に捨てられたという苦しみの中で生きていました。私たちも誰かから拒否されたと感じたならば、心に痛みを覚えたのではないでしょうか。
T−拒否され、恥を見ても−4〜6節
大事なことは、拒否された、捨てられたと感じて心痛む時に、どんな声を聞くかということです。そのような時、どんな声を聞くかで人生は大きく違って来ます。「お前は拒否されたのだ、見捨てられたのだ」というサタンの声を聞くのでしょうか。そんな声を聞けば、その通りの人生になるでしょう。しかし、拒否された、見捨てられたと感じる時こそ、主なる神の声を聞かなければなりません。4節。拒否された、見捨てられたと感じて、痛んでいる時に、「恐れるな」とやさしく語りかけてくださいます。
「若いときの恥」とは、妻が奔放に過ごし、自分勝手に生きていたということです。民は、エジプトの奴隷から助け出されて、神の民とされていたにもかかわらず、力があるようになると、神様を離れて偶像を拝み、神様を捨てました。それが、若いときの恥です。私たちも、若い時の失敗や未熟さのための後悔することがあるでしょう。
「やもめの辱め」とは、戦いや混乱の中で夫や子どもを失ったやもめが気落ちして、寂しい状態にあることに例えています。エルサレムがバビロンによって滅ばされ、民は捕囚になりました。そんな屈辱は、民が自ら招いたことでした。私たちも、批判や酷い仕打ちで屈辱を経験することもあったでしょう。ところが、神様はそのような恥を忘れ、屈辱を思い出すことはなくなると約束されています。
人は、人生において恥を見ることがあり、辱めを受けることがあります。それはとても辛い経験です。それを思い出しては鬱々としたり、苦しんだりすることもあります。そんな人々にもう忘れていい、思い出さなくていいと語りかけてくださるのです。
神様は愛なるお方です。そのことがよく分かるようにと、神様と神の民の関係を夫と妻の関係に例えています。4~6節。民は、拒否された、捨てられたと言うのですが、彼らが神様を拒否し、捨てたのでした。聖徒たちも、うまく行っている時や自分勝手にしている時、神様を拒否しているのです。神様は、エジプトの奴隷の苦役から民を救い出されて、カナンの地に導いてくださいました。ところが、民は背を向けます。反抗します。偶像に向かいます。神様に聞き従うことがありません。神様を喜ばせることがありません。そんな歳月をとれだけ過ごして来たのでしょうか。ついにエルサレムは破壊され、民はバビロン捕囚となりました。
例えのような妻がどうして再び夫の元へ戻ることができるのでしょうか。どうすれば戻って生活をやり直せるのでしょうか。とても難しいでしょう。しかし、神様は、何と言われていますか。そんな勝手気ままにしていた妻を「心に悲しみのある女」と呼んでいます。「どうして見捨てられようか」と言われています。6節。何という愛でしょう。裏切られたのに、そんなことを言ってくれる夫がいるのでしょうか。神様は違います。
なぜ神様は民をこれほどに愛されるのですか。「あなたの夫はあなたを造った者」だからです。5節。夫の愛が妻を造るのでしょう。夫がどのように妻を愛さなければならないか新約聖書で教えています。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」エペソ5:25。妻を尊重せずに、夫に従わせようとするのは、愛ではありません。怒鳴り、乱暴する者は、夫の資格はありません。愛は痛みや犠牲を伴うものです。神様はそのようなお方なのです。
U−ずっと御顔を隠して、捨てたと思われるが−7〜8節
神様は、あまりにも不貞で、身勝手な民に対して、御顔を隠して、彼らを捨てたかのようにされました。7~8節。たしかに、問題が続いたり、思うようにならなかったりすると、神様は私を拒否された、私を見捨てられたと感じてしまう時があります。それも、ずっと続いているかのように思うでしょう。たとえそう感じられる時があっても、それは「ほんの少しの間、少しの間」と繰り返し強調しています。
なぜでしょう。神様から背を向けて、散らばって行った民を再び集めると約束されました。7節。回復してくださるということです。今も、人々から拒否された、見捨てられたと感じて痛んでいるたましいを教会に集めてくださいます。神様から拒否された、見捨てられたと感じて離れている
聖徒たちを戻してくださいます。後にエルサレムに帰還する民は、信仰の民となって、エルサレムと神殿を再建するようになります。集められる現代の聖徒たちも、信仰に生きる民として造り変えられるようになります。
ここで強調されていることは、神様の「大いなるあわれみ」です。「永遠の真実の愛をもってあわれむ」と約束されています。詩篇には、あわれみ深い神様が、宣言されています。詩篇86:15。神様のあわれみは深く限りがありません。私たちのすることは、愚かに肉の思いを主張するのではなく、ただ神様のあわれみに自分をゆだねるだけです。うまく行かないから問題が起こるからと言って神様に拒否された、見捨てられたと思うのではなく、あわれみ深い神様を信頼し、御言葉に聞き従うのです。
こうして、神様は、拒否された痛みを経験している者が恐れないように、語りかけて、大いなるあわれみで取り囲んでくださいます。人生を歩んでいると、他人から拒否された、見捨てられたと感じて心痛むことがあります。時には、神様から拒否された、見捨てられたと感じて苦しむこともあるでしょう。しかし、苦難の中にも神様の御心があります。ローマ8:28。この御言葉は、苦難や問題の多い私たちの人生に慰めと勇気を大いに与えてくれます。神様の大いなるあわれみを覚えさせてくれます。苦難や問題の中で、私は拒否された、見捨てられたと思うのではなく、神様は私のためにはすべてのことを働かせて益とされるのだと信じるのです。
このように私たちの人生が保証されているとしたら、私たちの人生に難しさがあろうとも、何の問題があるでしょうか。あわれみ深い神様がすべてのことをあい働かせて益としてくださるなら、神の子どもとされた者の人生はうるわしく、幸いなのです。ですから、人生において何かが間違って、神様に拒否されている、見捨てられていると感じても、そのために自分の人生を放棄したり、絶望したりしてはならないのです。
V−真実の愛は移らない−9〜10節
神様は続けて、こう言われます。9~10節。神様は、ノアに言われた約束を引用して、神の民を赦し、守り、あわれむことを約束してくださいまいた。ノアに言われた約束のように、この約束を堅く守るということです。民を怒らず、責めない、つまり大いにあわれむと約束されました。その約束の確かさは、「たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らない」と言われるほどです。確かに人生において問題や事件が起こるでしょう。しかし、それら試練の中でも安全であるだろうこういう約束を信じて、神様に寄り頼むということが信仰の器を広げるということです。それまでの思い通りに行かないと神様に拒否されている、何か問題が起こると神様に見捨てられたと感じる信仰から大きく広がっています。
ノアが洪水の中にいた時は、本当に希望はなかったでしょう。不安と恐れ、苦しみの生活だったでしょう。世界が水に沈んで本当に恐ろしい状況でした。洪水が終わった時、もう洪水で滅ぼすことはないと約束されたのですが、その約束を信じなかったら、その恐れは続いたでしょう。しかし、ノアは約束の御言葉を信じ、約束の虹も信じました。創世記9:13~16。私たちが恐れや痛みの中にあっても、その恐れや痛みから抜け出させてくださる約束を信じるなら、恨みやため息の代わりに、賛美と祈りが出て来るでしょう。何が起ころうとも神様の真実の愛は私たちから移らないという約束を信じることです。御言葉を疑う者になってはなりません。
なぜなら、8節と10節の終わりを見てください。「主は言われる」と繰り返されています。驚くべきことを神様が言われる時付ける言葉が、「主は言われる」です。神様が言われたことであるから、神様が責任を取られる、神様が成し遂げられるということです。確かに私たちのできることは少ないでしょう。頑張ってもやれることは小さいことでしょう。しかし、私たちには神様が共におられます。天地創造の神様がともにおられます。私たちを造られた神がともにおられます。
さらに、5節に「あなたの贖い主」、8節に「あなたを贖う方」とあります。「贖う」とは、代価をもって買い戻すという意味です。このイザヤ書54章の前の53章の内容は何でしたか。イエス様が苦難のしもべとして世に来られ、私たちの身代わりに苦しまれることを預言していました。53章あっての54章なのです。あわれみ深い神様は、イエス様を贖いの代価として十字架に渡されることによって、私たちの罪を赦し、滅びから買戻して、救ってくださいました。Tテモテ2:6。「恥を忘れ、屈辱を再び思い出すことはない」と言われたのは、イエス様が私たちの罪を十字架に負ってくださったからです。イエス様の十字架の救いによって、イエス様を信じた私たちは神様の大いなるあわれみを受ける者とされました。そのイエス様の苦難を覚えながら、今週一週間を過ごします。Tペテロ1:3。
イザヤ54:4 恐れるな。あなたは恥を見ないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。まことに、あなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代の屈辱を再び思い出すことはない。
54:5 なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれているからだ。
54:6主はあなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い頃の妻をどうして見捨てられようか−あなたの神は仰せられる−
54:7 わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。
54:8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。−あなたを贖う方、主は言われる。
54:9 これは、わたしはノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水が再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。
54:10 たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。−あなたをあわれむ方、主は言われる。
エペソ5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。
詩篇86:15 しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。
ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
Tテモテ2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
Tペテロ1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
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