2024年3月31日「なぜ取り乱し、疑いを抱くのか」ルカ24:36〜43

序−人は、人生において様々な失敗をします。そして、失敗を通して多くのことを学び、成長や達成の過程としていきます。しかし問題は、失敗を敗北と思い、落胆して恐れてしまうことです。最初のイースターの日、弟子たちは、自分たちは失敗した者だと思い落胆し、恐れていました。
 
T−失敗した思いと挫折感の中で−36〜37
 弟子たちは、イエス様に人生の望みをかけていました。ルカ24:21。それが、あっけなく捕まって、十字架につけられてしまいました。ですから、イエス様を失った弟子たちは、人生に絶望し、自分たちは人生の失敗者だと思い込みました。それだけではありません。自分たちも、捕まえられ、殺されてしまうと恐れおののいていました。イエス様が復活された日、弟子たちは、恐れて隠れ家に閉じこもっていたのです。ヨハネ20:19。
 私たちも、人生の様々な出来事の中でうまく行かず、失敗したと落胆したり、難しい問題のために恐れを抱くことがあるでしょう。その時、自分を人生の敗北者のように思って、落ち込んでしまうでしょうか。そう思ってはなりません。このような弟子たちのところに復活されたイエス様が来られ、言葉をかけてくださいました。36節。「平安があなたがたにあるように」という言葉は、単なる挨拶ではありません。人生に失敗したと思い、失望落胆して、恐れている弟子たちにかけられた言葉なのです。
 ところが、このような主の慈愛に満ちた励ましの言葉を聞きながら、弟子たちは、どんな反応をしていますか。37節。復活のイエス様に会ったのに、喜んでいないのです。幽霊だと思い、おびえて、震え上がったというのです。弟子たちの挫折感の深さが現れています。
 36節のはじめに、「これらのことを話していると」とあります。これらのこととは、イエス様が復活された話です。1〜35節。女たちがイエス様の葬りの準備をしようと墓に行って見ると、墓は空になっており、御使いからイエス様の復活のことを聞いて弟子たちに伝えました。女たちから話を聞いたペテロとヨハネが墓に言ってみると、聞いた通りであったと確認しました。そして、二人の弟子がエマオ村に行く途中でイエスに出会った様子を話してくれました。弟子たちは、これらのことを聞きました。
 それでも、弟子たちはイエス様の復活を信じませんでした。弟子たちは、イエス様の復活の話を何人からも聞きました。それに、イエス様が苦しめられ、殺されて、復活されるということをイエス様から何度も聞かされていました。これらの話を聞いて、やっぱりイエス様の言われた通りなのだと信じなければなりませんでした。しかし、弟子たちは、信仰のないような状態に陥っていました。
 弟子たちの挫折感は半端ではありませんでした。弟子たちは、「ご一緒に死ななければならないとしても、イエス様を知らないなどとは決していいません」と言っていた人たちです。マタイ26:35。それなのに、イエス様を見捨てて逃げてしまい、イエス様を知らないと否みました。自分たちは失敗した者だという思いが強かったのです。そのことが、弟子たちを頑なにして、イエス様の復活を信じられないようにしていたのです。
 私たちは、どんな姿ですか。イエス様を信じている私たちも、復活のイエス様に出会った者です。しかし、私たちも失敗や挫折の中で信仰が揺れ動き、信仰のない人のように行動してしまうかもしれません。神様の方法ではなく、世の方法に従って生きてしまうこともあるでしょう。自分勝手な考えて生きてしまい、イエス様を忘れて生きることもあるでしょう。私たちも、人生において失敗したと落ち込んだり、恐れたりする時、「平安があなたがたにあるように」という主の言葉を聞かなければなりません。

U−復活を教えてくれました−38〜40
 イエス様を幽霊だと思って恐れていた弟子たちに、どんな言葉をかけてくださいましたか。38節。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか」言われました。弟子たちを責めているというより、弟子たちが取り乱し、疑いを抱いていることに気付かせようとされたのです。人は、失敗し、恐れている時、取り乱してしまうのです。疑いを抱くようになります。そうなっていることに自分自身は気付きません。言われてはじめて、取り乱して、疑っていることに気付かされるのです。
 でも、気付かされたからと言って、取り乱していることや疑いを抱いていることが解消されるわけではありません。そこで、イエス様は、失敗の思いと深い挫折感のために復活を信じられないでいた弟子たちに視覚的なことを通して復活を理解させようとされました。39〜40節。なぜ、弟子たちは、目の前に現れたイエス様を幽霊だと思ったのでしょうか。家のドアが閉じられていたのに、入って来られたからです。イエス様の体は、時間と空間の制約を受けない体でした。そうなのです。弟子たちは、イエス様の復活を正しく理解していませんでした。私たちは、復活について理解しているでしょうか。弟子たちと共に学びましょう。
 イエス様は、恐れている弟子たちに対して、ご自分の手や足を見せてくださいました。幽霊なら肉や骨はないでしょうと言われました。イエス様の復活は、復活を信じる私たちの勝利でもあります。人生において病気や問題など取り乱し、疑いを抱くことがあるかもしれません。でも、イエス様が死を打ち破り、死に勝利されたことは、私たちもイエス様のように勝利する恵みを受けているということです。なんと言う恵みでしょうか。
 イエス様は閉じられたドアを通り抜けて来られましたが、復活の体はどんな体なのでしょうか。Tコリント15:42〜44。イエス様の体は、霊の体で復活されました。大きな嬉しいニュースです。なぜならば、私たちの復活と天国での姿を教えているからです。私たちも、イエス様のように霊の体をもって復活します。神様が設けられる新しい天と地で、復活した霊の体で生きる祝福を受けるようになります。Uペテロ3:13。
 イエス様を信じて救われた者は、すでに天国に国籍があります。ピリピ3:20〜21。天国では、私たちの体は、イエス様の栄光の体と同じようにされると約束されています。何と素晴らしいことでしょうか。私たちが復活する時には、朽ちない、死なないからだに変えられるというのです。Tコリント15:51。イエス様が再び現れる時には、イエス様の姿を見ることができて、私たちもイエス様と似たようになると約束されています。
 その時には、死に勝利したという御言葉が実現するのです。ヨハネ16:33。死に打ち勝って、平安が与えられます。ヨハネ14:27。心を騒がしたり、恐れたりしてはならないのです。イエス様が十字架に苦しみ死なれ、復活されたことを通して、私たちにこの復活の信仰が与えられているからです。

V−イエス様と交わる−41〜43
 手と足を見せられて、弟子たちは喜びました。でも、まだイエス様の信じられず、不思議がっていました。41節。失敗したという思いと挫折感のためです。そのために、イエス様はさらに視覚的なことを通して復活を理解させようとされました。41〜43節。イエス様の手や足を見ただけはまだ信じられなかった弟子たちの目の前で、イエス様は焼き魚を召し上がったのです。焼き魚を食べるイエス様を見て、失敗や挫折感で疑い深い者となっていた弟子たちは、回復しました。
 焼き魚を食べる時に、イエス様の復活を思い出すでしょうか。食事をされるイエス様の姿は、私たちには馴染みのある姿です。イエス様は、公生涯の中で、多くの人々と一緒に食事をされました。五千人の給食をし、取税人ザアカイの家に泊まったり、マルコの家の屋根裏部屋で食事なされたり、イエス様が人々と一緒に食事をするシーンを見ることができます。
 イエス様は人々と共に食事をされましたが、それは、人々と親しく交わりをされたということです。この復活の時もに食事をされたということは、肉体があることを証明するだけでなく、弟子たちと親しく交わりをしたかったということです。失敗し、挫折感でいっぱいだった弟子たちにとって、大きな励ましとなりました。心がなごみ、感情が取り扱われ、失敗した思いや挫折感が心から薄れて行ったことでしょう。
 今日も、イエス様は私たちと一緒に交わりたいと願っておられます。私たちができることは、兄弟姉妹と共に食事をする時、そこにイエス様も共におられると思って、信仰の交わりをすることです。そうすれば、私たちも、愛餐を通して、慰めや励ましを私たちも受けることができるでしょう。
 この世に失敗しないで生きた人は誰一人いません。しばしば失敗したと嘆き、落ち込み、恐れ、不安になることでしょう。そんな時、イエス様は私たちを回復させるために私たちを再び尋ねて来てくださいます。復活の主に会わなければなりません。イエス様に会えば、挫折感や恐れ、不安感から回復することができます。私たちが失敗や恐れから回復される方法は、復活のイエス様に出会うことです。私たちが主に立ち帰るなら、イエス様と会うことができます。
 ペテロがイエス様を三度否んだ時、イエス様がペテロを見つめられました。ルカ22:61。それは、失敗し、挫折したペテロを回復させる眼差しでした。復活のイエス様は、私たちが失敗し、落胆して倒れた場所に来てくださり、私たちに会ってくださいます。どんなに難しい場所にあっても、死に打ち勝ち、復活してくださったイエス様が来てくださり、私たちを回復させてくださいます。ヨハネ16:33。



ルカ24:36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
24:37 彼らはおびえて、震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。わたしにはあります。」
24:40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。


ヨハネ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

マタイ26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

Tコリント15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

ピリピ3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

ヨハネ14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

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