2024年5月5日「と言ってはならない」イザヤ56:1〜8

序−「感情はすぐに脳をジャックする」という本があります。感情を正しく認知し、感情に振り回されないように勧めています。確かに捕囚の民も、そうでした。捕囚となっていた民は、自分たちは何もかも失った者だ、望みのない者だ、何の力もない何もできない者だという思いに囚われていました。そして、絶望し、自分を否定的に見ていました。

T−自分を悲観し、自分を否定する人々−1〜2
 そんな絶望し落胆していた彼らの中でも、もっとも自分を否定し、自分を悲観していた人々が、今日の箇所に登場している異国の民や宦官という人々でした。3節。
 「主に連なる異国の民」とは、異国の民なのですが、主なる神を信じていた人々のことです。異邦人と言われていた人々は、真の神を信じていない人であり神の民の交わりから除外されていました。申命記23:3。この異国の民は、聖書の神様を信じており、礼拝していた人々でしたが、異邦人として扱われて、肩身の狭い思いをしていました。そんな感情が考えに影響し、いつか「民から切り離される」と言うようになりました。
 そして、宦官とは、同じ神の民なのですが、バビロンの王宮に仕えるために肉体的な障害を与えられていた人々でした。そのために、家族も持てず、同じ神の民の集まりから除外されていました。申命記23:1。「私は枯れ木だ」とは、役に立たない者だという意味です。そのように呼ばれた感情が考えに影響し、「私は枯れ木だ」言うようになったのでしょう。
 バビロンで捕囚となっていた民は、捕囚としての差別や迫害を受け、様々な障害や心の傷、弱さや不足を持っていました。そのような扱われ方や環境から受けた感情が彼らの考えや行動に影響し、自分を否定して、絶望していたのです。異国の民や宦官は、その典型と言えるでしょう。
 私たちは、どうですか。私たちはそれぞれ欠けや弱さを持っています。障害や病もあります。心の痛みや傷もあります。困難な問題が起こり、辛い仕打ちを受けることもあるでしょう。自分の境遇やその時々の状況から受けた感情のために、自分を否定したり、悲観したりすることがないでしょうか。この異国の民や宦官に対して、神様は何と言われていますか。3節。主に連なる異国の民はひがんで「私は見捨てられる」と言ってはならない、宦官も自虐的に「私は枯れ木だ」と言ってはならないとはっきり命じておられます。
 もし私たちが、問題や人から言われたことを気にして自分を否定したり、自分に悲観したりして、「私はだめだ、私には何もない、この先良いことはない、私はこんな者だ」などと言ったならば、主は私たちに対して、「そんなことは言ってはならない」とはっきり言われます。「あなたは間違っている、あなたは誤解している」と指摘してくださいます。「そのような者だと自分を見るのは今すぐ止めなさい」と命じられます。
 人は外見や身分で判断するかもしれませんが、神様は私たちを外見や身分で見ることはされません。外見や所有で悩む人がいるでしょうが、神様はそんなものに関心はありません。その人の心を見られます。Tサムエル16:7。

U−主に連なる幸いな人−
 なぜ、そのように神様は命じられるのでしょう。1節。「わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも」と言っています。救い主イエス様が来られようとした時、バプテスマのヨハネが、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言いました。マタイ3:1〜2。ですから、「わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れる」は、イエス様の来られ、救いが与えられることの預言だと言われています。
 エペソ2:11〜13を見ると、イエス様に出会って救われる以前の私たちは、望みのない、神のいない異邦人と同じだったが、イエス様の犠牲によって救われたと言われています。イエス様が自分の罪と滅びの代わりに十字架にかかられたと信じるなら、救われて、罪赦され、天国への命をいただきます。神様と共に歩む人生となります。
 ですから、たとえ自分が、異邦人や宦官のような境遇であったとしても、希望があると信じてください。たとえ知恵や力が足りなくても、人に認められないとしても、病や傷害があったとしても、神様の守りと導きの中にあります。ここで「主に連なる」というのが、神様を信じて、神様と一緒に人生を歩む者のことです。まさにイエス様を信じて、神様と共に歩む者です。神様の連なる者は、神の子供として与えられる恵みと祝福です。
 私たちが救われるのは、神様の一方的な恵みです。エペソ2:5,8。私たちに対して何の条件も問われていません。ただ、神の御子イエス様が、私の救い主だと信じて、告白するだけで恵みによって救われます。神の子どもとして受ける祝福も、私たちの行為とは無関係に与えられる祝福です。しかし、もう一つの祝福があります。2節。この「幸いな人」というのは、祝福された人という意味です。このアシェルという言葉は、信仰者が事を行って得られる、努力して得られる祝福です。この祝福を得るには、救いの恵みに応答して働き、労苦しなければなりません。アシェルの祝福と言います。
 御言葉の祝福は、自分に失望し、何も期待できず、否定的悲観的思いに囚われていた者に、新しいことを考えさせてくれます。イエス様を信じて、救われた者として「公正を守り、正義を行え」と言っています。絶望したり、自分を否定したりするのでなくて、神の民として神様の御言葉を行いなさいと言うのです。ここに希望と前進があるのです。

V−希望は、御言葉を守り、礼拝をささげること−
 祝福を受ける幸いな人とは、どんな人ですか。2節。それは、安息日を守って礼拝をささげ、御言葉を行う人です。4節でも6節でも、このことを繰り返しています。主に連なる異国の民や宦官について「わたしの喜ぶことを選び」「主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった」からと言っています。つまり、神様はこう言われているのです。「あなたはわたしを愛していますか。わたしに仕えますか。わたしを喜ばせてくれますか。そうであるなら、わたしはあなたを祝福します」ということなのです。
 自分の外見や境遇のために心配したり、落胆したりしないでください。私たちが悩むべきことは、果たして神様に素直に信頼しているだろうか、御言葉に忠実に聞き従っているだろうかということです。
 どうして安息日を守ることで、絶望感や自己否定感から解放され、希望と喜びが生じて来るのでしょうか。なぜ、安息日を守ることで、祝福を得るのでしょうか。バビロンで捕囚となっていた民が周りの人々と違うのは、安息日を守ることでした。捕囚の境遇でも、安息日に礼拝をささげることが希望でした。厳しい世でも、安息日を守り、礼拝をささげて神の民として生きて行くのが、喜びであり、力となったからです。安息日に礼拝をささげて行くのか、世のあれこれで翻弄されて生きるのかによって、神様に連なる者なのか世に属する者なのかとなるからです。安息日を守って汚さないようにと言われているのは、それだけ安息日を守って礼拝をささげることが、神の民であることを示す大切な基準の一つだからです。
 もう一つ、主に連なる異国の者も、宦官も、「わたしの契約を守る」つまり、神の民として御言葉を守って生きるなら、祝福を受けると言われています。どんな祝福ですか。4〜7節。宦官の憂いは、自分の名を受け継ぐ子孫がいなければ自分の名が絶えるということでした。昔の日本で家を継ぐ者がいなくなるというのとおなじです。しかし、その憂いに対して5節を見ると、神の民の中で信仰の家族の中で、その名が覚えられて行くと言っています。寂しくはない、ひとりぼっちではないということです。
 主に連なる他国の者についても、7節を見ると「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」と祝福されています。神の民が会堂に集まり祈り合うという姿に、信仰生活の楽しさと確かさがあります。クリスチャンの集まる教会は、祈りの家と呼ばれます。マタイ21:13。互いを覚えて互いのために祈り合う聖徒の交わりは、信仰共同体で生きる恵みを享受させてくれます。
 絶望と不安の多い世にあって、信仰の交わりには平安と楽しさがあります。神様を礼拝するところに希望があり、祝福があります。毎週毎に祝福を与えられる主の日に会堂に集まって礼拝し、賛美をささげ、御言葉で恵みを受け、聖徒が互いに祈り合い、交わり、天国の前味を味わうのです。
 今日の箇所は、私たちに対しても、絶望したり、自分を否定したりするのではなく、主の日に集まり、礼拝をささげなさい。思い惑ったり、悲観したりするのではなく、御言葉に生きなさいと勧めています。
 安息日は、今ではイエス様の復活を記念した主の日です。私たちが、主の日に喜び感謝して礼拝をささげて、日々御言葉に真摯に生きて行くなら、世の人々もその生活と姿を通して、そのような恵みと祝福のある生活をしたい、そのような平安と喜びのある人生を歩みたいと加わって来て、集められるようになります。8節。私たち一人一人がこのような信仰で生き、教会がこのような信仰共同体となることを願います。詩篇147:1~3。



イザヤ56:1 主はこう言われる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも。」
56:2 幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は。
56:3主に連なる異国の民は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
56:4 なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
56:5 わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与える。絶えることのない永遠の名を与える。
56:6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、その安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
56:7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげものやいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆるの民の祈りの家と呼ばれるからだ。
56:8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」



Tサムエル16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

マタイ3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

エペソ2:11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉において異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれ、
2:12 そのころはキリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあって、キリストの血によって近い者とまりました。

エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

マタイ21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを「強盗の巣」にしている。」

詩篇147:1 ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。
147:2主はエルサレムを建てイスラエルの散らされた者を集められる。
147:3 主は心の打ち砕かれた者を癒し彼らの傷を包まれる。

戻る