2024年5月12日「主に身を寄せる者は」イザヤ56:9〜57:13

序−聖徒たちにも、時には人と比べて、自分の存在が儚くて、自分は損な役割で、辛い立場だと思う時があります。自分を悲しませ苦しめる人々をうらんだり、問題に苦しむ自分は惨めだと思うこともあります。そのような者たちに、神様はどんなことを教えているのでしょうか。

T−目が見えず、何も知らない、口のきけない見張り人−56:9〜12
 弱い辛い立場ではあっても、主に連なる異国の民や宦官が幸いな人だと言われていましたが、そんな人々とは反対に、富も権力もあった民の指導者たちはどうだったのでしょうか。56:9〜12。彼らは、「目が見えず、みな何も知らない。彼らはみな口のきけない犬」と言われています。10節。役に立たない見張り人ということです。吠えない犬は番犬になりません。敵が近づいて来るのに、まったく警告を出さなかったということです。
 ユダの指導者たちは役に立たない見張り人だというのですが、彼らが何もできなかったからではありません。11節。彼らは貪欲でした。足ることを知りません。ですから、誰もが自分勝手な道に向かって行き、自分の利得を求めていました。現代社会も貪欲であり、自分勝手であり、自分の利得を追求しています。マタイ23:16〜17。彼らは、見張り人として、バビロンが攻めて来る前に、悔い改めて神に立ち帰るようにと民に対して警告することをしませんでした。マタイ15:14。
 彼らは眠りを貪ると言われていますが、どんな夢を見ていたのでしょう。酒に酔って言っていたことは、敵が近づいて来るのに、「明日も今日と同じだろう。もっと、素晴らしいかもしれない」と言っていたのです。社会が悪くなって行くのに、「これからも変わらない、うまく行く」と何もしない為政者が言っているのと同じです。「明日も今日と同じだろう」と言っている時にバビロンはやって来て、ユダは滅ぼされ、エルサレムは破壊されてしまいました。
 何か、ユダの民のことばかりでなく、現代の人々に対しても警告をしているようです。いや、そうなのです。こんなに社会が混乱して行くのに、人々はますます自分勝手に生き、己の利得を追求しています。社会も家庭も危うくなっているのに、悟らず、このまま変わらないだろうと言って、罪の生活を続けるのです。そんな疲弊する現代社会にあって、目を覚まして悔い改めて神様に立ち帰るように言う見張り人が必要です。
 社会の困ったニュースを見ながら批評家や見物人のようにしているでしょうか。この役に立たない見張り人を責める言葉は、私たちにも向けられていると受け取らなければなりません。私たちは、自分が置かれている所で見張り人とされています。果たして、自分は置かれている所で見張り人をしていたでしょうか。見張り人としての責任が問われています。エゼキエル33:6〜7。ですから、イエス様を信じて救われた者が、罪に滅びて行く道でなく、救いの道を教え、神の御言葉に聞き従う幸いな生き方を証しして行くのです。自分勝手な道に向かっていた人々に救い主が遣わされたことを知らせるのです。イザヤ53:5〜6。
 もちろん、ユダの国がバビロンによって滅ばされる前に、神様の御言葉に従って生き、神様の警告を伝えていた義人もいました。たとえば、預言者エレミヤも、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされると警告しました。そうしたら、自分たちは滅びない、明日も同じだと夢を見ていたユダの指導者たちは、怒ってエレミヤを牢獄に入れました。エレミヤ38:4〜6。

U−義人は平安に入り、休むことができる−57:1〜2,13
 エレミヤのように迫害され犠牲になった義人について語っています。1節前半。偶像に走り、罪に支配された民によって、義人が迫害され、誠実な人が犠牲になるなんて、酷すぎる、納得できないでしょう。なぜなら、私たちも懸命に信仰に生きて、神様に頼っているのに、人々から酷い扱いを受けることがあり、彼らが罰を受けていないように見えるからです。
 この義人は、口のきけない見張り人と言われた悪い指導者たちによって迫害されたのでしょう。見張り人の責任を果たしていない者たちは、警告する預言者や義人に対して怒り、迫害し、殺してしまいました。自分たちの気に入ることを言ってくれないから、取り除いたのです。それも、義人が死んでも心に留める者はいないし、誠実な人いなくなっても気付く者はいないという有様でした。義人たちは、神様をあらわし、いのちを懸けて見張り人の務めをしたのに、残念で気の毒なのでしょうか。
 悲惨な死、無残な死ではありません。1節後半。「義人はわざわいを前にして取り去られる」と教えられています。やがて義人たちを迫害した者たちにわざわいが来る前に、連れて行かれたというのです。これは、守られたということです。また、民のために御言葉を伝えて見張り人の働きをしなければならない人たちを連れて行かられたということに「心に留める者はいない、気付く者はいない」ということでした。義人たちの伝えた神様のメッセージを心に留めて、裁きが迫っていることに気付かなければならなかったのです。
 ですから、2節では、義人たちについて、「その人は平安に入り、まっすぐに歩む者は、自分の寝床で休むことができる」と教えられています。そうです。「主にあって死ぬ死者は幸いである。その労苦から解き放されて安らぐことができる」ということです。黙示録14:13。義人たちの働きは無駄だった、その死は惨めだったということではなかったのです。「彼らの行いが彼らとともについて行くからである」と言われている通りなのです。天国では悲しみや苦しみの涙をぬぐってくださいます。黙示録21:4。
 私たちは、この深い神様の取り扱いについて、目を開かれるのです。ですから、自分は損な役割で、辛い立場だと思うことがあっても、神様の取り扱いを信頼するのです。自分勝手にする者たちを憎んだりしないで神の御手に委ねるのです。そして、ただ自分は、神の見張り人の立場をまっとうすることに心を向けるのです。
 ですから、世の人々がするように判断しないのです。自分勝手に世でうまく生きている者が得だということではありません。先に召された義人が悲惨だということでもありません。ステパノは、自分を石打ちする者たちのためにとりなし祈って召されました。使徒7:60。バプテスマのヨハネは、救い主イエス様の来られることを準備したのに殺されました。マルコ1:4,7:27。でも、その働きは覚えられ、実を結びました。どれだけ神様に頼り、御言葉に聞き従って生きたかが重要なのです。

V−自分勝手な道に向かって行った者たちへの招待−57:1〜13
 神様の見張り人としての役割をした義人たちが取り去られた後に、何と!貪欲で自分勝手な者たち、偶像崇拝する者が神様から呼ばれています。3〜13節。女卜者、姦夫と遊女というのは、偶像崇拝を行っていた民のことです。そんな民が神様に近づけと招待されているのです。
 まず、偶像崇拝に陥った民の残念な姿が指摘されています。4節には「だれをからかい、だれに向かって口を大きく開き、舌を出すのか」と指摘されています。彼らが口にしていた文句や恨み、不満や批判などが結局神様へ向けられていたということです。6節では、出エジプトの民がカナンに割り当てられた相続地を川の滑らかな石、つまり偶像に替えたというのです。8節の扉と柱とは、出エジプトの時子羊の血を塗って裁きが過ぎ越しされて救われた記念の場所です。出12:21〜23。その場所に偶像を置いたというのです。神を軽んじ、神に頼まない姿です。
 私たちも、自分の思うようにならない時、問題や苦難が続く時、心が神様から離れたり、神様は頼りにならないと思ったり、世の何かに心を向け、拠り頼もうしたりするかもしれません。それは、木や石の像を拝んでいなくても、偶像崇拝をしていることになるのです。心には、目に見えない偶像が据えられてしまうからです。一人子イエス様を犠牲にされるほど私たちを愛してくださる神様を悲しませ、心を痛めさせることになります。
 こんな民に対しても、ご自愛深い神様は、立ち帰りを期待し、救いを提示されました。最後の13節には、裁きと救いが宣言されています。いざという時、彼らの集めた偶像は彼らを救ってはくれません。しかし、主に「身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる」と祝福されています。主に拠り頼む者は救われるのです。
 なぜ、このように酷い偶像崇拝に陥った者へも、主に身を寄せるならば祝福すると言われているのでしょう。イエス様が十字架と復活を通して救いの道を開いてくださるからです。イエス様が十字架に死なれたのは、ごすべての人を罪と滅びから救い、天の御国へ導くためです。Tペテロ2:24,エペソ1:7。それは、人が再び罪と滅びの下に生きることがないようにと犠牲となられたのです。もう二度と偶像の民として生きるのではなく、神に頼る民、神の見張り人として生きるようにと十字架で苦しみ、死なれたのです。
 義人たちの死の後に、偶像の民となった者たちへ呼びかけられ、招待されています。1〜3節。義人たちも、イエス様のように迫害されても彼らのために御言葉を伝え、とりなし祈ったでしょう。ルカ23:34。それゆえに、民が呼ばれているのです。ステパノのように、自分たちの苦しみや死を悪い指導者や偶像崇拝に堕ちた民のせいにすることなく、恨むことなく、召される時まで神の見張り人の働きをまっとうしたのです。私たちは、義人の姿から何を学ぶのでしょうか。Tペテロ2:24。



イザヤ56:9 野のすべての獣よ。やって来て貪り食うがよい。林の中のすべての獣も。
56:10 神の見張り人は目が見えず、みな何も知らない。彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りを貪る。
56:11 この犬どもは貪欲なで、足ることを知らない。彼らは牧者なのに、悟ることがない、誰もみな自分勝手な道に向かって行く。一人残らず自分の利得に。
56:12 「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」
57:1 「義人が滅びるが、心に留める者はいない。誠実な人が取り去られるが、気付く者はいない。義人はわざわいを前にして取り去られる。
57:2 その人は平安に入り、まっすぐに歩む者は、自分の寝床で休むことができる。
57:3 しかし、あなたがた、女卜者の子ら、姦夫と遊女の子孫よ。ここに近寄れ。
57:4 あなたがたは、だれをからかい、だれに向かって口を大きく開き、舌を出すのか。あなたがたは背きの子、偽りの末裔ではないか。
57:5 あなたがたは、樫の木の間や、青々と茂るあらゆる木の下で、身を焦がし、谷や、岩の裂け目で子どもを屠っているではないか。
57:6 谷川の滑らかな石があなたの分、それら、それらこそが、あなたの受ける割り当て。それらに、あなたは注ぎのぶどう酒を注ぎ、穀物のささげ物をささげているが、こんな物で、わたしが慰められるだろうか。
57:7 そびえる高い山の上に、あなたは寝床を設け、そこにも上って行って、あなたはいけにえを献げた。
57:8 あなたは、扉と柱のうしろに、自分を記念する像を置いた。あなたはわたしを捨てて裸になり、そこに上って自分の寝床を広げ、彼らと契りを結び、彼らの寝床を愛し、彼らの象徴物を見た。
57:9 あなたは油を携えて王のところまで旅し、香料を増し加え、使者たちを遠くまで送り出し、よみにまでも下らせた。
57:10 あなたは、長い旅に疲れても、「あきらめた」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、それで弱らなかった。
57:11 あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。わたしが久しく黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。
57:12 わたしは、あなたの義のわざと、あなたの行いの数々を告げよう。しかし、それらはあなたにとって役には立たない。
57:13 あなたが叫ぶとき、あなたが集めたものどもに救わせよ。風が、それらをみな運び去り、もやがそれらを連れ去ってしまう。しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。


イザヤ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

黙示録14:13 また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放されて安らぐことができる。彼らの行いが彼らとともについて行くからである。」

使徒7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

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