2024年5月19日「神が分かると自分が分かる」イザヤ57:14〜21
序−カルバンの基督教綱要のはじめに、「神を知る知識と我々自身を知る知識は結び合っている」とあります。これは、神が分かると自分が分かるということです。神が分からないと自分のことも分からないということです。カルバンは、神を知って自分自身を知る知識こそ、人が最も必要とする本質的な知識だと教えているのです。
T−聖なる神の前にへりくだる−14〜15
今日の箇所には、神様がどんなお方であることが教えられています。まず、神様は、「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方」だと教えられています。15節前半。「いと」というのは、極めてという意味です。極めて尊いお方、永遠の存在であられるということです。「聖なる」というのは、ぴんと来ないかもしれませんが、区別される、分離されるという意味です。誰も近づくことも触れることもできない、すべてのものからかけ離れた存在であるということです。
このような偉大な神様の存在の前に、アブラハムは、「私はちりや灰にすぎません」と言っています。創世記18:27。預言者イザヤは、神様の臨在に触れた時、「ああ、わたしは滅んでしまう。この私は唇の汚れた者」だと言いました。イザヤ6:5。この偉大な神を知るならば、人はどうなりますか。15節後半。「砕かれた人、へりくだった人」とならざるを得ません。「砕かれた」とは粉のように砕かれたということで悔い改めるという意味になります。「へりくだった」とは低くされたという意味です。ちょっと謙遜に振舞うということではなく、へりくだらざるを得ないということです。
このような聖なる神を知らない場合、ある人々は聖書の神について自分の都合のよい存在に思ってしまいます。勝手なお願いをし、神の前にへりくだることがありません。ご利益信仰と何ら変わりありません。極めて尊い聖なる神を知らなければ、私たちにある自己中心性や高慢を振り払うことはできません。しかし、本当に聖なる神様を知ったならば、そんな高慢は木っ端微塵に粉砕されてしまいます。私たちは、砕かれて、へりくだっているのでしょうか。
神様は、砕かれた人、へりくだった人に対してどうしてくださると言われていますか。「砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かす」と言われています。何という恵みでしょうか。神様の臨在に触れて「ああ、わたしは滅んでしまう」と言ったイザヤに対して、神様は臨在に「触れたので、あなたの罪は赦された」と言ってくださいました。イザヤ6:5,7。聖なる神を知ってへりくだる者とともにいて、生かしてくださいます。
聖徒たちは、信仰者ですから、一応謙遜に振舞います。しかし、肉の信仰の感情は、高慢の思いを含んでいます。信仰の知識や行いについても、自分を高くする傾向があります。極めて尊いお方、永遠の存在、聖なる方であるという神様を知らないからです。意識していないからです。カルバンが綱要のはじめに、「神を知って自分自身を知る知識こそ、人が最も必要とする本質的な知識だと教えて」いるということは、それだけ私たち長老教会の信仰にとって大事なことだということです。
私たちは、イエス様を知っているでしょうか。知っているならば、へりくださらざるを得ません。神の御子である人の姿をもってイエス様が世に来てくださり、私たちのために十字架上に身代わりの犠牲となられたからです。ピリピ2:6〜8。神の前にへりくだる者にとって、人が自分をどう評価するかは重要ではありません。自分に対する自分の評価も重要ではありません。重要なことは、神様が自分をどう見てくださるかということです。私たちが砕かれた人、へりくだった人であるなら、神様が私たちとともに住み、私たちを生かしてくださるからです。
U−赦しと悔い改め−16〜18
次に、神様は、「なお背いて、自分の思う道を行く者に対して、いつまでも怒っていない、彼らを癒して、導いて、慰めてくださる」方だというのです。16〜18節。不正な利得の咎のために、偶像崇拝の罪に対して、神は怒られ、民を打ちました。それでも、彼らはなおも背いて、自分の思う道を行きました。神の民なのに、神様を信じないで、自分を信じているのです。それがユダの民、捕囚の民でした。聖徒たちも、しばしばそのような姿になります。慈愛とあわれみ深い神を知れば、自分が分かります。
人の関係に置き換えてみましょう。はじめは、勝手なことをしている者に対して、怒りを留めて、受け止めます。それでも反省することもしないで、勝手気ままにするなら、怒って叱責するでしょう。勝手なことを繰り返すなら、怒り続け、見捨てるでしょう。しかし、神様は、いつまでも怒り続けないのです。見捨てないというのです。いや、それどころか、癒して、導いて、慰めてくださるというのです。この神様をどう思いますか。私たちに対してもそうしてくださるのです。
もし、神に背いて、自分勝手な歩みをする者が見捨てられてしまうなら、もっと貪欲の罪に陥り、もっと自分勝手に歩み悪い状況になってしまうでしょう。自分を傷め付けることになり、嘆き悲しむことになります。けれども、人は間違っている自分を変え、正しくすることが中々できないのです。自分の心の偶像から抜け出すことは容易ではありません。
それで、神様は、人がもっと酷い不幸に陥ることのないように、打たれた傷を癒し、迷う心を導き、嘆きや悲しみを慰めてくださるというのです。彼らは、まだ勝手気ままを続けているのに、叱られても、咎められても、なお背いて、自分の思う道を行くのに、癒し、導き、慰めてくださるというのです。このように、神様は、頑なな私たちに対しても、驚くべきいやしと慰めをくださいます。
これが、イエス様の十字架による罪の赦しです。ローマ5:8。苦難のしもべが民の背きの罪によって刺し通され、勝手な道を行く民の咎を負わされたのです。イザヤ53:5〜6。悔い改めた、反省した、思い直した、行いを改めたから赦されたのではないのです。私たちが悔い改める前にイエス様は、私の身代わりとなって十字架にかかってくださいました。
なおも背いて自分勝手な道を行く者を癒して、導いて、慰めてくださる方が神様だと分かったならば、もうただただ感謝して、悔い改めるしかありません。勝手な歩みをやめて、立ち返るしかありません。使徒3:19。それは努力ではありません。神様の愛とあわれみに気付いたら、自然に心が砕かれ、素直になり、悔い改めて、立ち返るのです。神様を知るなら、もうそうするしかないのが私たち自身であるのを知るのです。
この悔い改めと立ち返りは、イエス様を信じる時だけではありません。自分勝手な私たちに対する神の愛と忍耐に気付いた時に、そうします。
V−神への立ち帰りと平安−19〜21
そして、神様は、悔い改めて、立ち返る者に平安を与えてくださるお方です。19節。実は、「なお背いて、自分の思う道を行った」者も、平安を求めていたのです。人は心の平安、平安な生活を求めて、自分の思う勝手な道に向かって行き、神に背を向けてしまうのです。そういう自分であることが分からないのです。残念なことです。自分の思うままの道を行ければ平安かではなく、自分勝手にできることで平安が得られるわけでもありません。世が与える平安と神様が与えてくださる平安は違うからです。ヨハネ14:27。平安が違うのに、あれがあれば平安と思って世の平安を求めるから、虚しい徒労に終わるのです。平安を求めているのに、平安が得られないのです。
イエス様の救いを通して真の平安を与えてくださるのが神様だと分かれば、虚しく世の平安を求めている自分が分かります。自分が求めるべき平安が分かります。そういう神様であることが分かれば、神様に立ち返って平安を受け取りたいと願います。
平安がない状態はどんななのでしょうか、どんな人に平安がないのでしょうか。20〜21節。悪者とは、神に背を向けて、自分の思うままに道を行く者のことです。17節。平安でない状態とは、荒れ狂う海のようで、静まることができないことを言っています。そんな人生は、確かに平安ではありません。苦しくて、不安です。ですから、平安はありません。平安を求めているのに、神に背を向けて、自分の思うままに道を行くからです。早く気付いて、主に立ち返らなければなりません。
「その水は海草と泥を吐き出す」って何でしょう。平安を得ようと自分勝手な道に向かって頑張っているのに、平安が得られないなら、人はどのようになりますか。嘆き悲しんで、その苦しさや不満を人にぶつけることになるでしょう。それを人のせいにするでしょう。悪口や悪態が泥のように吐き出されるのです。なお背を向けて、自分の思う道を行くなら、荒れ狂う海のままです。そんな者に、あわれみ深い神様は呼びかけてくださいます。14節。悔い改めて、神に立ち返りなさいということです。使徒3:19。
「わたしは唇の実を創造する者」とは何でしょう。私たちに賛美をすることを神様が与えてくださったということです。ヘブル13:15。悔い改めて神様に立ち返って罪を赦され、癒し、導き、慰められるなら、賛美が溢れて来ます。平安ならば、賛美が実ります。砕かれた人、へりくだった人は、感謝と喜びで賛美します。使徒3:19。
イザヤ57:14 ―主は言われる―「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」
57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。
57:16 わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊が衰えはてるからだ。わたしが造ったいのちの息が。
57:17 彼の不正な利得の咎のために、わたしは怒った。顔を隠して彼を打ち、そして怒った。しかし彼はなお背いて、自分の思う道を行った。
57:18 彼の道を見たが、それでもわたしは彼を癒す。わたしは彼を導いて、彼とその嘆き悲しむ者たちに、慰めを報いる。
57:19 わたしは唇の実を創造する者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼を癒す。―主は言われる―
57:20 しかし、悪しき者は、荒れ狂う海のようだ。まことに、静まることができず、その水は海草と泥を吐き出す。
57:21 悪者どもには平安がない。―私の神はそう仰せられる。」
創世記18:27 アブラハムは答えた。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて、主に申し上げます。
ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
使徒3:19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
ヨハネ14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
ヘブル13:15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
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