2024年5月26日「形だけの断食と主の好む断食」イザヤ58:1〜12
序−クリスチャンとなったということは、それまでと違って、天地の造り主なる神、イエス様という救い主をくださった神を覚えるようになったということです。ところが、信仰生活をして行くうちに、神の御前に生きている意識がなくなると、信仰生活にある問題が生じて来るようになります。
T−断食したのに、認めてくださらない−1〜5
それは、形式的な信仰生活という問題です。今日の箇所では、断食という具体的なことを通してそのことを教えてくれています。皆さんは断食をされたことがあるでしょうか。病気や検査のために、ダイエットのためにされたことがあるでしょう。捕囚の民ユダの民は、自分たちの信仰生活の習慣にしたがって定期的に断食をしていたようです。エルサレムが囲まれた日、陥落した日、神殿が破壊された日を断食日に指定していました。さらに、自分の信仰を見せるために断食をしている人もいました。5節。
この箇所では、そのような人々の問題が指摘されているようです。民は、信仰的行為として断食を行い、神様が働いてくださることを求めて断食をしていました。2節。ところが、断食をした民は、文句を言っています。3節前半。断食したのに神様が聞いてくれない、苦しい断食で自らを戒めたのに認めてくれないと言っていたのです。何か願って断食したのに、願い通りにならなかったからです。今日の聖徒たちも、私は熱心に祈っているのに願った通りにならない、ちゃんと信仰生活しているのにうまく行かないと文句を言うことがあります。
私が断食すれば神が私を認めてくれるはずだ、私が苦しい断食をすれば神様は願いを聞いてくれるはずだという思いで断食をしていたのです。そういう功績主義の思いからでした。
民の願った通りにならなかった理由が指摘されています。3節後半〜4節。断食をしながら好き勝手なことを行い、ついには人々と争うことになり、彼ら断食する間使用人に労苦を強いることになりました。節制して悔い改めて神に祈るという断食の目的とはほど遠い姿でした。その断食は、ただ形式的な行為だけだったというのです。ですから、「背きの罪」と言われています。1節。
そんなことでは、神様が聞いてくれるはずがないと言っています。彼らは、功利主義だけでなく、形式主義でした。5節。粗布を着て、灰をかぶり、頭を垂れて断食をしていることを見せ付けていました。イエス様も言及しておられます。マタイ6:16〜18。わざわざやつれた顔つきをして、断食していることを知られるようにしていた人々を偽善者だと言いました。断食する時は、頭に油をつけ、顔を洗って、断食していることを知られないようにしなさいと言われました。
こんな姿を神様が喜ばれるでしょうか。これは形だけの断食であって、信仰生活ではありません。断食に限らず、形だけの行為、形式的な信仰生活ということが問題にされています。さらには、その形だけの行為をして神様に働きを願っているという姿が問題にされています。
私たちも、他人事として聞き流すことはできません。私たちも、礼拝をささげ、聖書を学び、証しし、祈っていながら、世の人々と同じように噂話をし、人と争い、悪口を言い、好き勝手に振舞うことがないだろうかと省みさせられます。そんな生活をしながら自分の願い通りにしてくださいと勝手な願いをしていないだろうかと思わされます。自分の信仰生活は、形だけになっていないか点検してみる機会となれば幸いです。
U−わたしの好む断食とは−6〜7,9b〜10a
では、どういう断食なら良いのでしょうか。神様の好む断食が教えられています。6〜7節。正しい断食のやり方でも指南してくれるということではありません。断食をして神に祈るなら、隣人や家族の困難や必要を覚えて助けるべきはないかと言われています。「わたしの好む断食」と言いながら、断食そのものはまったく触れていません。あなたのできることで隣人や家族を助けなさい、仕えるようにしなさい、そういう愛の実践が神様に喜ばれることだと教えています。Tヨハネ3:18。
9〜10節にも神様の好まれることに触れています。もし〜ならばというところです。そういう人々を思いやるばかりでなく、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去ることが必要ではないかというのです。信仰的行為をしながら、人々を安易に批判したり、人に対して悪い言葉を吐いたりすることは、全く信仰的ではありません。断食をするなら、もっと敬虔に生きるはずなのに、好き勝手をして、争い、論争するなど神様と何の関係がありますかということです。伝道、宣教と言いながら、肉の言動をしているなら、どうなのですかということです。
イエス様も断食をされました。マタイ4:1〜10。イエス様が荒野で断食をされた後、悪魔の試みを受けられましたが、その試みに対してすべて御言葉をもって退けられました。イエス様は、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る御言葉によって生きると言われました。イエス様が断食するのは、神の御心を知って従うことだったのです。マタイ6:33。
神様の好まれることの中で、「悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くこと」というように同じような表現を繰り返し強調されています。捕囚の民としても、くびきや束縛、虐げがあったことでしょう。そういうことで少しでもできることで助けてあげることを断食の行為より大事だということでした。
今日も、人々は、様々な束縛やくびきの縄目の中で生きています。自分勝手な歩み、罪の習慣、人を憎み敵対すること、心の偶像などに囚われ、支配されているのです。それによって苦しみ、心や体を傷つけられています。イエス様の十字架による救いを伝えて、囚われから解放されるように助けなければなりません。神の民がそうだったように、すでに救われている聖徒でも、様々な束縛やくびきの縄目に囚われることがあります。私たちは、囚われている信仰の友に寄り添って励まし、御言葉に導いて神様の取り扱いを受けるように助けるのです。Tテサロニケ5:11,14, ヘブル10:25。
V−破れを繕う者、通りを住めるように回復する者−8〜11
そのような愛の実践をして行くなら、どのようになりますか。8〜10節。しっかり信仰の行いをして行くと神様の力が現れるようになります。闇を追い出す光が約束されています。闇の中にいるような思いから解放されます。そして、主の御名を叫び求めるならば、「わたしはここにいる」と主は言ってくださいます。不安と恐れの中にいる者に平安を与えてくださいます。形だけの信仰生活ではなく、愛の実践を伴う信仰生活、御言葉に聞き従う歩みがなされるならば、神様から光と平安のプレゼントが与えられるというのです。
また、「あなたは潤された園のように、水の涸れない水源のようになる」という約束を繰り返し強調しています。11節。その約束の恵みは、民が聞くと私たちよりイメージは大きくすごいものです。なぜならば、その地は荒野が多いからです。潤された園、水の涸れない水源のようになるというのは、どれほどの祝福でしょうか。どんなに嬉しいことでしょうか。
神様を離れた捕囚の民の心も、霊的には渇いた荒野のようでした。断食で分かったように、その形だけの信仰生活、自分なりの信仰生活のため、渇いた心であり、潤いのない生活でした。時には、私たちの心も渇きます。私たちも、その形だけの信仰生活、自分なりも信仰生活になるからです。愛の実践を伴う信仰生活をして行くことで、私たちの心も、潤された園のように、水の涸れない水源のようになることを信じます。
イエス様は、荒れた生活していたスカルの町の女に対して、イエス様を救い主と信じるならば渇くことのない泉を飲むことができると約束してくださいまいた。ヨハネ4:13〜14。イエス様を救い主と信じる者は、たましいが乾くことがないと言われました。ヨハネ6:35。
さらなる祝福の約束が与えられています。12節。70年も破壊されたままなら、町は廃墟になって、道は分からなくなっていたことでしょう。家を建て直し、城壁を築き、道を整えなければなりません。形骸化した信仰ではなく、御言葉に生きる信仰となるなら信仰が再建されるという約束は、不安の中にいる民に希望がわいて来ます。形だけの信仰ではなく、心も伴った霊的な信仰になるなら、自分なりの信仰、形だけの信仰生活が建て直され、崩れた信仰の基礎が築き直されるようになるという約束です。それは、神様の御前に祝福された人生を歩むことができるということです。そのためには、形式的な信仰から抜け出さなければなりません。神様と人の前に真実でなければなりません。
何と!偽りの断食を叱責されている民が、やがて「破れを繕う者、通りを住めるように回復する者」と呼ばれるようになると約束されています。12節。イエス様に救われ、造り直される過程にある私たちも、神様から「あなたは破れを繕う者だ、崩れた所を建て直す者だ」と言われている者です。私たちが置かれている所の荒廃した場所、破壊された基礎を再建するように言われています。
そのためには、私たち自身、形だけとなった信仰生活を発見し、自分の過ちや弱さを認め、悔い改めて、信仰を再建するようにします。私たちが崩れた所を発見するのは、神様の祝福です。神の御前に生きます。12節。
イザヤ58:1 「精一杯大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らの背きの罪を、ヤコブの家にその罪を告げよ。
58:2 このわたしを、彼らは日ごとに求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行い、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。
58:3 『なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。』見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。
58:4 見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。あなたがたが今のように断食するのでは、いと高き所に、その声は届かない。
58:5 わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、粗布と灰を敷き広げることなのか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。
58:6 わたしの好む断食はこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
58:7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。
58:8 そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光があなたのしんがりとなられる。
58:9 そのとき、あなたが呼ぶと主は答え、あなたが叫び求めると、『わたしはここにいる』と主は言う。もし、あなたの間から、くびきを除き去り、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去り、
58:10 飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗やみは真昼のようになる。
58:11 主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。
58:12 あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたの世々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。
マタイ6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。
Tヨハネ3:18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。
Tテサロニケ5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
5:14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
ヘブル10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
ヨハネ6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
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