2024年6月9日「自分を振り返る」イザヤ59:1〜8

序−6月の天候は雲の多い季節です。梅雨の季節になれば雨や曇りの日が多く、あまり雨や曇りが続くと太陽がなくなかったように感じます。しかし、雲がなくなれば、夏のような日差しが照ります。太陽はいつでも雲の上で照り輝いています。今日の箇所は、そんなことを連想させます。

T−仕切りが隠させ、聞こえなくさせた−1〜2
 招詞で読まれた箇所は、神の民、聖徒たちに読まれて来た箇所です。詩篇22:1〜2、切実に祈っているのに答えがないので、神様は私をお見捨てになったのか、なぜ聞いてくださいのかと嘆いています。それでもこの詩人は神を信頼して祈っています。詩篇22:3〜4。それで、信仰者は、もしかして私に何か原因があるのではと考えてみます。自分を振り返ってみます。
 でも、捕囚の民はそうではありません。断食をして神様に祈りながら、答えがないのは神様のせいだと文句を言っています。イザヤ58:3。「私たちが断食したのに、ご覧にならならず、慰めてくださらないのですか」と言うのです。しかし、彼らは断食の祈りをしていながら、自分勝手なことをして労働者を虐げていると指摘されていました。
 ですから、59章で、祈りが聞かれず、神様の祝福がいただけないのには理由があると教えています。1〜2節。「見よ」という言葉が原文でも文頭にあります。「注意して見なさい、気をつけて見なさい」という意味です。それだけ、強調されています。この言葉に注目しなければならないと呼びかけられているのです。
 「主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない」と言っています。そのように民が文句を言っていたのでしょう。天地の創造主です。民がそう言おうとも、そんなはずはありません。人が神の助けや祝福を受けられないのは、神様に力がないということではありません。神様のせいでもありません。聖徒たちにとっては、あまり聞きたくないことかもしれません。謙虚に神様の御声を聞きましょう。
 原因は何ですか。2節。神様と神の民との間に「仕切り」があるからです。その仕切りとは、民の「罪、咎」です。58章にあったように、神の民は、断食して祈りました。断食の祈りは、人生に深刻な危機が訪れた時、問題の中で神様の助けを求める時にします。ところが、いくら祈っても神様が聞いてくださらないのです。
 詩篇94:9には、耳を造られた方が聞かないだろうかと言っています。神様に力がないわけではありません。ですから、なぜ答えがないのか、調べなければなりません。まだ時期ではないのかもしれない、別な導きが用意されている場合もある、すでに答えにあるのに気づいていないことだってある。しかし、今日の箇所が教えているのは、自分を振り返ることでした。
 神様と自分の間に仕切りがあるからだというのです。あたかも、太陽の光を遮っている雲のように、自分の罪と咎が神様の助けと祝福を遮っているのだろうかと考えてみるのです。断食して祈っていた民は、まったく自分を振り返ることがありませんでした。神様のせいにして文句を言い、不信と疑いをぶつけるだけで、自分を省みることがありませんでした。私たちも、時には、自分を振り返ってみることが必要です。真摯に省みてみましょう。雲が消えて、光が差し込むでしょう。

U−神との間の仕切りとなった咎と罪−3〜8
 神様との間の仕切りとなっている咎、罪とは何でしょう。3〜8節。具体的に記されています。3~4節。それは、「嘘、偽り」です。「唇は偽りを語り、舌は不正を告げ、嘘を言う」ことが繰り返され、強調されています。神の民、聖徒たちが、嘘、偽りを言っていたというのです。多くの人が平気で嘘を付いていますが、そのもたらす害毒は大きいです。「手は血で、指は咎で汚れている」というのは、言葉で人の心を傷つけ、嘘偽りで人格を殺しているということです。
 「平気で嘘をつく人たち」という本があります。自分の非を絶対に認めず、自己正当化のために嘘をついて周囲を傷つける邪悪な人の心理を扱った本です。平気で嘘をつき、矛盾した言い訳を堂々と言い、前と違ったことを言うのです。そんな人は、見るからに嘘つきと分かるわけでなく、調子が良く、口が達者で、良心のある人に比べれば洗練されているというのです。ですから、嘘をついているとは気づかれないようです。いや、嘘をついている人自身嘘をついている自覚がありません。自分を優れた者と思い、他人の意見を聞く耳を持たず、批判されると過剰反応し、攻撃的になるそうです。
 そうなるまでは分からないので、その嘘に巻き込まれ、騙され、ともに憤慨したり、批判したりするようになります。5〜6節。噂は走り、悪い反応となり、破壊と破滅に向かいます。7〜8節。くもの巣に絡まれるように取り込まれ、卵から毒蛇がとび出すように害毒が出て来るのです。4節で、「義をもって訴える者はなく、真実をもって弁護する者もいない。空しいことに頼り、嘘を言い」とあるようになります。噂するのではなく、本人に確かめれば嘘であることが分かり、忠告することもできます。いや、噂話を聞いて、そんなことはないはずと弁護することもできるでしょう。
 今日の箇所は、ローマ3:9〜18に引用されています。私たちに他人より優れた所があるだろうかと言っています。すべての人が罪の下にあると言われています。そして、口や舌と繰り返し、嘘偽り、言葉の害毒が指摘されています。私たちも自分を省みなければなりません。
 なぜならば、言い訳をし、自分を誇り、噂話を言うことが嘘につながるからです。人は、言い訳も自慢も噂話も嘘とは思っていないので、嘘を言っているという自覚はありません。でも、それが神との隔てになります。また、憎しみも隔てになります。邪悪をはらみ、悪意を産み、平和をもたらしません。4,8節。受けた嘘偽り、不義や暴虐から生じた怒りや憎しみではあっても、憎しみや怒りが勝利することはできません。今日の御言葉を黙想すれば、自分を省みざるを得ないからです。
 私たちは、「私の心を悪いことに向けさせず、不法を行う者どもとともに、悪い行いに携わらないようにしてください」と祈ります。詩篇141:4。私たち自身も嘘偽りを言うことのないように、「私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」と祈ります。詩篇141:3。

V−人生を省みる−
 結局、このように嘘をつく民が、いくら頑張って祈っても、断食しても答えは得られず、祝福も受けられませんでした。それは、咎や罪が神様との隔てとなっていたからです。聖徒たちは、他人や神様のせいにするのではなく、自分の中に何か隔てがないか省みさせられます。噂話で人を判断していないだろうか。言い訳のために脚色していないだろうか。認められたくて自分を誇っていないだろうか。そんなことをすれば、嘘をついていることになり、神様との隔てとなるからです。
 イエス様を信じて救われた私たちは、神様の前に自分を振り返るという原則を持たなければなりません。神様の助けや祝福を享受するには、神の前に自分を省みて、罪に気づき、問題を解決してもらわなくてはならなりません。人は、誰かから誤りを指摘されることは気分が悪いです。自分の過ちを他人に言うことは躊躇し、嫌がるでしょう。でも、神様の前に立って神様に言う時は、そんなことはありません。神様の御前に立つならば、自然と自分の中にある恥ずかしい部分が明らかになり、素直に自覚するようにされるからです。
 神様の御前に立ってみましょう。神様と一緒に話してみましょう。自分と神様を隔てる罪や咎を話題としてみましょう。「さあ、論じ合おう」と神様が私たちを御前に招いておられます。イザヤ1:18。「共に論じ合おう。あなたの方から述べたてよ」と言われます。イザヤ43:25〜26。驚くべきことに、私たちが罪を持って行って話すなら、赦してくださるということです。救い主イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったからです。Uコリント5:21,コロサイ1:14。
 では、いつ、振り返りますか。気づかされた時、今です。イザヤ55:6。私たちは、神の御前で自分を振り返る原則を持つのです。神の助けや祝福を受けようとするなら、御前に自分を振り返りなさいと御言葉は教えています。私たちのすべてを知っておられる神の前に自分を振り返るならば、気づかなかった「隔て」に気づかされるようになります。
 私たちは、問題に出会うと、悩み苦しみます。祈ってもうまく行かないと他人のせいにしたり、神を疑い、文句を言うかもしれません。神の助けや祝福を受けられない原因は何だったのでしょうか。神様と自分を隔てている咎や罪があるからと教えられました。
 太陽はいつでも輝いています。ただ、曇りや雨が続くと嫌になります。しかし、雲が太陽の光を遮っているだけです。暑い雲に覆われても、その上には変わらない太陽の光があります。雲がなくなれば、太陽が照り輝きます。イエス様が私たちのために死んでよみがえられたので、神の顔の光が私たちに照らされるようになりました。詩篇67:1。私たちが隔ての雲を作ってしまうのです。隔ての雲がなくなれば、御顔の輝きが私たちに照らし、祝福と平安が臨みます。神様はいつも御顔を私たちに向けておられます。詩篇141:3〜4。



イザヤ59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。
59:2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
59:3 実に、あなたがたの手は血で、指は咎で汚れている。あなたがたの唇は偽りを語り、舌は不正を告げる。
59:4 義をもって訴える者はなく、真実をもって弁護する者もいない。空しいことに頼り、嘘を言い、邪悪をはらみ、悪意を産む。
59:5 彼らは、まむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと毒蛇がとび出す。
59:6 そのくもの巣は衣にはならず、自分で作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、暴虐の行いがその手にある。
59:7 彼らの足は悪に走り、咎なき者の血を流すのに速い。その思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。
59:8 彼らは平和の道を知らず、その道筋には公正がない。自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも平和を知らない。


詩篇22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
22:2 わが神。昼に私はあなたを呼びます。しかし、あなたは答えてくださいません。夜も私は黙っていられません。

イザヤ58:3 「なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならならず、自らを戒めるために、慰めてくださらないのですか。」見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てるる。

詩篇94:9 耳を植えつけた方が、聞かならないだろうか。目を造った方が、見ないだろうか。

詩篇141:3 主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。
141:4 私の心を悪いことに向けさせず、不法を行う者どもとともに、悪い行いに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。

Uコリント5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

イザヤ1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

詩篇67:1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。 セラ

戻る