2024年6月16日「主は悔い改める者の所に来る」イザヤ59:9〜21
序−主の御前に自分を振り返ってみて、どうでしたか。どんなことを思い、自分を省みることができたでしょうか。今日の箇所は、主の御前に自分を振り返り、自分を省みた民の姿と主の応答が記されています。そこには、大切なことが教えられています。
T−自分の現状を省みて−9〜11
熱心に断食をしているのに願いを聞いてくれないと不満をもらしていた民が、嘘偽りを中心としたその原因の指摘を受けて、自分たちを省みてみました。そして、自分たちの状況に気づき、悔い改め、自分たちの姿を告白しています。9〜11節。謙虚に自分を省みて、素直に指摘や忠告を聞くと、自分の姿や状況が見えて来ます。このことが大切です。忠告や指摘は、たとえ親切心からであっても、気持ちの良いものでなく、素直になれないことがあるでしょう。でも、彼らは、神様の指摘を聞いて、省みたので、気づきました。
9節から、突然これまでの「彼ら」に変わって「私たち」という表現になっています。そうです。預言者イザヤ自身も、自分を含めて告白しているのです。頑なな民に対して神様の御言葉を伝え、労苦して来た預言者としては、彼らの咎を指摘し、民を責めるだけでよかったのです。民のように神様に背いていたわけではありません。でも、民と一緒になって悔い改めているのです。イザヤの心の痛みも感じられます。これは、民の悔い改めを促すことになったことでしょう。
9節冒頭の「それゆえ」というのは、これまでの1〜8節の指摘を受けたのでという意味です。御言葉を聞いて、それを自分自身に照らしてみたのでということです。御言葉は、いつも自分に当てはめてみることが大切です。そうすると、御言葉の力が働くようになります。
民が気づいた自分たちの姿に注目してみましょう。断食して祈ったのにという彼らの思いは、神様の御前に立つと正しくはなかったということに気づきました。9節。光を待ち望んだのに、闇だったということに気づきました。光とは、正しい道を歩んで行くことです。自分を振り返ってみると、暗闇の中を歩んでいるようだった、まるで目の見えない人が手さぐりで歩くようだと気づいたのです。自分がどうやって歩んでいいか分からなったのです。
どうして、そうなったのですか。知らなかったのですか。教えてくれなかったからですか。そうではありません。教えられても、謙虚に受け入れなかったのです。聞いても従わなかった高慢のためです。肉の思いは従うことを嫌がりますが、私たちは知っている御言葉の真理には従わなければなりません。気づいたら、ますは小さいことから従ってみましょう。
小さいことに従順になると、神様が深い御心を教えてくださるようになります。従順でないから、目が見えないようになっていたのです。御言葉に聞かないと、判断の基準がないので、何が正しいのか分からなくなります。その最大の理由は、自分の高慢さのためです。自分の頭を聖書の上に置いているのです。それで、どうやって御言葉通り生きることができますか。判断がつかなくなってしまいます。
御言葉に対する正しい態度は、御言葉を素直に受け入れるということです。自分の肉の思いに合わせると受け入れられません。神様の導きを体験することはできません。そういう人は、肉体的に丈夫に見えても、心は昼も夜も迷っているので、心は痛んで、死んだようになります。10節。
その様子が、動物の呻きに例えられています。11節。どう判断して分からず、どう歩んでいいか見えないために、「熊のようにうなり、鳩のようにぶつぶつうめく」のです。なぜ、そうなのですか。神様に信頼していないからです。私たちもうなり、ぶつぶつ呻くことはないでしょうか。
U−罪の告白−12〜15
自分たちの現状に気づいた後、その理由を告白しています。12〜15節前半。罪の告白です。12節には、罪に関係する三つの言葉が使われています。「背き」(ペシャ)とは、違反、反逆という意味で、神に背くということです。「罪」(ハッタート)とは、ギリシア語の罪ハマルティアに訳されます。「咎」(アヴォーン)とは、不法、不義に対する罰の意味です。ハマルティアとは、的を外すという意味です。神様から離れた者は、何をしてもその人生は的を外したものであり、不法や不義も生じ、神に背くようになります。自分を省みなければなりません。
民は、自分の現状を振り返り、こんな問題がどこから来たのか省みてみました。神様への背きの罪が原因だったと気づきました。自分を振り返ると、形は信仰生活をしていても、心は神様から離れていた自分がいました。だから、考えることなすことが的から外れ、どうしてよいか分からなくなり、主の御前に罪を犯すことになったのだと気づくようになりました。そうなると、神の恵みを受ける準備がされるようになります。詩篇51:1〜4。自分の罪について素直になって受け止め、告白し、主に信頼して、主の取り扱いを求めます。私たちも、そうなりたいと願います。
自分たちの背きの罪について、特に告白しています。13節。彼らは断食をよくするなど自分たちは信仰生活をしていたと思っていたのですが、心は神様に向いていなかったのです。「背きの罪」に特に気づかされました。神様を知っていれば、何でも神様の御前にすることになります。神に聞いて、神に相談して歩むのです。しかし、自分の思うようにならなければ、神様に文句を言うのは、神様を軽んじていることになります。彼らは、神様を神と認めていなかったのです。断食をしながら、争い、悪を行っていました。嘘を言い、偽りを行っていました。
神様を離れると、公正さも正義も正直さもなくなります。嘘偽りにおおわれ、サタンの付け入るところとなります。14節。当時の神の民だけでなく、今日の聖徒たちも、その危険があります。15節前半。神の御言葉が与えられているのに、自分の考えと自分の思いで生きてしまうと、正しく判断する力が失われ、迷うことになります。判断の基準である御言葉がなければ、判断できなくなります。しかし、御言葉に聞くならば、問題や状況を納得できるようになります。
V−主がご自分の御腕で−15〜21
こうした民の素直な、真実な罪の告白を受けて、神様が応答してくださいました。15節後半〜16節前半。まず、あわれみ深い神様は、罪を告白する民の現状に心を痛められました。助けてくれる者がいなくてどうにもならない状況に驚かれました。神を離れた者の姿はそういうものです。人には助けてくれる者、とりなしてくれる者が必要です。ただ、幸いなのは、告白するならば、神様が心を痛め、あわれんでくださることです。
聖徒たちの辛い状況をあわれんでくさった神様は、自らが乗り出してくださいます。16節後半。神様がとりなす者となってくださいます。これはイエス様の預言です。Tテモテ2:5〜6。イエス様こそ、唯一のまことに神と人とのとりなすお方です。なぜならば、イエス様がすべての人の罪の贖いの代価として、ご自分を死に渡されたからです。私たちに救いを与えてくださいました。「ご自分の御腕で救いをもたらし」というのは、神様がご自分のひとり子を世に送ってくださるという意味です。イエス様を信じることで義とされ、罪なしと認められるのです。ローマ3:24〜25。
このイエス様の十字架によって与えられた義、罪の許しを得るには、自分が罪人であることを認め、主の前に告白しなければなりません。自分の全的堕落を認め、主なる神のみが自分の人生の問題を解決してくださると信じる時、神様に頼ることができます。ご自分を信仰でもって頼る者を神様は守ってくださいます。17節。まるで鎧武者のような表現です。そして、私たちにも信仰の武具を身に付けるように勧めています。エペソ6:13〜17。救いの恵みに完全に頼るということです。
悔い改める者には、祝福を与え、主に背き、逆らう者は裁きを与えると宣言されています。18〜19節。人々の行為に応じて神様は報いを与えられます。信仰があれば、救われて天国へ召されるでしょうが、行為に対する祝福、報いがあるということです。イエス様を信じる聖徒たちが痛めつけられれば、神様の怒りが臨まれるということです。私たちが憎み、怒り、仕返すことをする必要がありません。
神様に信頼する者は、御国に行くまで守られるということです。イエス様を信じて拠り頼む者は、滅びることはありません。神様の御手から奪われることもありません。ヨハネ10:28〜29。
今日の箇所の結論です。20〜21節。神様が背きの罪から立ち返る者の所に贖い主として来られるという宣言です。自分の罪を告白して、悔い改める者には、救いの恵みが臨むということです。その内容が21節に記されています。悔い改めれば、聖霊と御言葉を与えるという素晴らしい約束です。聖霊の働きがなければ、御言葉の力は発揮されません。神様は、悔い改める者に御言葉を与えてくださるだけでなく、御霊の与える剣である御言葉が働くようにしてくださいます。エペソ6:17。
知らず知らずのうちに、肉の信仰に生きていたかもしれません。自分の思いで自分の好むままに歩んで来たところもあるでしょう。背きを悔い改めて、すくいの恵みに生きる者となりたく願います。使徒3:19。
イザヤ59:9 それゆえ、公正は私たちから遠く離れ、義は私たちに届かない。私たちは光を待ち望んでいたが、見よ。闇。輝きを待ち望んでいたが、歩くのは暗闇の中。
59:10 私たちは見えない人のように壁を手さぐりし、目が無いかのように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、強健な者の中にいる死人のようだ。
59:11 私たちはみな、熊のようにうなり、鳩のようにぶつぶつうめく。公正を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、私たちから遠く離れている。
59:12 それは、私たちの背きが御前で多くなり、私たちの罪が不利な証言をするからだ。まことに、私たちの背きは私たちとともにあり、私たちは自分の咎をよく知っている。
59:13 私たちは、主に背き、主を否んで、私たちの神に従うことをやめ、虐げと反逆を語り、心に偽りのことばをはらんで告げる。
59:14 こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。それは真理が広場でつまずき、正直さが中に入ることもできないからだ。
59:15 そこでは真理は失われ、悪から遠ざかっている者も略奪される。主はこれを見て、公正がないことに心を痛められた。
59:16 主は人のいないのを見て、とりなす者のいないことに唖然とされた。それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義をささえとされた。
59:17 主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。
59:18 主は彼らのしうちに応じて報い、はむかう者に憤り、敵に報復し、島々にも報復される。
59:19 そうして、西の方では主の御名が、日の昇る方では主の栄光が恐れられる。それは主が激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっているからだ。
59:20 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに。──主のことば。」
59:21 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である──主は言われる──。あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、子孫の子孫の口からも、今よりとこしえに離れない──主は言われる。」
詩篇51:1 神よ、私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。、私のそむきをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
51:2 私の咎を、私からすっかり洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
51:3 まことに、私はまことに自分のそむきを知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
Tテモテ2:5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
ローマ3:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
3:25 神は、この方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自身の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。
ヨハネ10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
使徒3:19 ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。
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