2024年7月21日「主の喜びがあなたにある」イザヤ62:1〜5

序−皆さんはあだ名で呼ばれたことがあるでしょうか。良い呼び名もあれば、酷い呼び名もあるでしょう。捕囚から帰還した民は、屈辱的な呼ばれ方をしていたのですが、神様は新しい呼び名を与えてくださいました。

T−わたしは黙っていない−1
 捕囚から解放された神の民は、70年ぶりに故国に帰って来ました。エルサレムは、焼かれて廃墟となっていました。神殿は、崩れ果てていました。夢にまで描いた都のこれが現実でした。生活も大変でした。民は、再建の希望を失い、意気消沈し、喪失感に陥りました。そんな思いに追い討ちをかけるように、妨害する周りの国の人々からは、「荒れ果てた都」「捨てられた民」と呼ばれたようです。帰還した民も、辛辣な屈辱的な呼び名のために、ますます落ち込み、自分たちも神に見捨てられた者だ、荒れ果てた者だと思いました。
 私たちも、かつてどんなあだ名で呼ばれましたか。辛辣な屈辱的な呼び方をされたことがあるでしょうか。その呼び名によって心傷つき、心がかき乱されたでしょうか。私たちに対しても、神様は帰還した民を通して、呼びかけてくださいます。
 そのような民に対して神様は、預言者を通してこう言われました。1節。神様は、見捨てられていると思った彼らに対して「わたしは黙っていない。沈黙はしない」と言われました。毅然とした言い方です。しばしばうまく行かないと、苦しいことが続くと、神様は私を見捨てておられる、主は黙っておられると言っていたからです。そうではないのです。
 悪魔は、傷付き、悩み、落ち込んでいる聖徒たちを神様から離そうとして、お前は見捨てられた、荒れ果てているとささやきます。そして、周りの人々の口を通して、辛辣な屈辱的な呼び方をさせるのです。
 神様は、力強く「わたしは黙っていない、沈黙はしない」と言って、失意の中に落ち込んで民を慰め、励ましておられます。希望と約束を与えてられます。事が動かないからと言って、神様は黙っておられるのではありません。見守り、育み、導いておられます。子どもを産んだ母や子どもを放っておくでしょうか。大人になるまで世話をし、育てるでしょう。
 イエス様を通して私たちを救ってくださった神様は、私たちを守り、導いておられます。教会を生んだイエス様は、教会を守り、育む働きをやめません。教会を生み出すのに労苦されたのですから、引き続き労苦してくださいます。教会は、このようなイエス様の絶え間ない労力があるので、この危険な世でも守られて行くのです。

U−新しい名で呼ばれる−2〜3
 わたしは黙っていない、沈黙はしないと言われた神様は、彼らを大切に思われておられたので、彼らを新しい名前で呼ぶと言われました。2節。「主の御口が呼ばれる」と言っています。誰かが勝手に呼ぶのでなく、主が名づける新しい名で呼ばれると言うのです。それだけ、彼らには価値があり、重要だということです。主から新しい名で呼ばれるということは、新しい存在になったということです。名前が変わるということは、存在の大きな変化を意味します。
 神様によって神の民の名前が変えられると、その人のあり方が大きく変わります。聖書の中から例をあげてみましょう。アブラムが多くの国民の父とするからアブラハムと、ヤコブが神の祝福を受けたのでイスラエルと新しい名を与えられました。創世記17:5,32:26。彼らは、その時から、その変えられた呼び名にふさわしく生きるようになりました。イエス様も、弟子たちに新しい名をつけました。シモンをペテロ「岩」と呼びました。ヨハネ1:42。クリスチャンを迫害していたサウロが悔い改めた後は、パウロ「小さい者」と呼ばれ、新しい存在になりました。使徒13:9,Tコリント15:9。
 イエス様によって救われる以前の私たちは、ただの悲惨な罪人に過ぎませんでした。救われて新しい存在ととなりました。私たちも、救い主イエス様を受け入れた時から、新しい名前を与えられています。神の子、光の子、聖徒、クリスチャンと呼ばれます。ヨハネ1:12,12:36,ローマ1:7,使徒11:26。ですから、私たちは、その名の変化と同じくらい変化した姿を持つべきだということです。その名にふさわしく歩みたいと願います。聖餐式の度に、「神の子、光の子にふさわしく歩む誓いに生きように」と祈られています。
 神様が名づけた新しい名で呼ばれることは、こういう意味があると言っています。3節。主にある輝かしい冠、王のかぶり物となると言うのです。冠、かぶり物とは、同じ意味です。繰り返して強調されています。冠、かぶり物は、誇りや価値があるという意味です。聖徒たちや教会が神の手の王冠となることは、神様が聖徒たちや教会をご自分の栄光とされ、極めて尊い存在と思われておられるからです。言わば、聖徒たちや教会は、神様の喜び、誇りの冠だということです。Tテサロニケ2:19〜20。私たちという存在がどれほど素晴らしいか確信していますか。たとえ世が教会を軽んじても、聖徒たちを侮辱しても、その価値は少しも損なわれません。
 さらに、聖徒たちや教会が神の冠だということは、教会や聖徒たちが神様の絶対的な守りを受けられるということも意味しています。ちょっと変だなと思われませんか。なぜ主は冠を頭にかぶらずに、「手に持って」おられるのですか。意図的にそうされておられるのです。神の御手にあるということは、教会や聖徒たちが神様の絶対的な守りの中にあることを強調するために、神の手にある冠と繰り返されているのです。

V−あなたはわたしの喜び−4〜5
 それでは、神様が呼ばれる新しい呼び名とは何でしょう。4節後半。「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、「夫のある国」と呼ばれると言っています。それぞれ原語では、ヘプジバ、ベウラという名で呼ばれています。その意味が「わたしの喜びは彼女にある」であり、「夫のある国」です。4節前半では、あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われないと力強く語っておられます。そう言われていた時は、どれほど辛かったでしょうか。悔しかったでしょう。もう、そのようには言われず、むしろ、ヘプジバ、ベウラという新しい名で呼ばれると言うのです。
 特にヘブジバは、こことU列王21:1にだけに出て来ます。U列王21:1では、マナセ王の母の名前です。「ヘフツィ・バハ」はヘブル語の発音に近い訳で、一般にはヘブジバかヘフジバと言われています。ヘプジバの名の意味は、「あなたは私の喜び」です。素晴らしい意味の名前です。かつては、「見捨てられた、荒れ果てている」と呼ばれていましたが、ヘプジバ、ベウラと呼ばれるならば、「あなたは主の喜び、神様の愛する者」となりました。
 英語圏でも女性の名前として用いられて来ました。たとえば、モンゴメリの「赤毛のアン」にも、ヘプシバという名が登場します。アンが地名や人名を気に入る名に変えることをしていたのですが、その例としてこの名が使われています。作者のモンゴメリは聖書の記述を意識して用いているようです。
 ヘプジバ、ベウラという新しい名で呼ばれるようになったことは、完全な変化、完全な再創造ということです。身分の変化、新しい名前で呼ばれて新しい人になりました。イエス様に会う前の私たちは、罪によって神から遠く離れていた者でした。エペソ4:18。罪に支配され、死に行くみじめな者でした。ローマ7:24。しかし、神から遠く離れていて、みじめだった者が、神から「あなたはわたしの喜びだ」と言われる者になりました。
 ヘプジバは、とても愛されている人をあらわす表現です。神様にとって帰還した捕囚の民がヘプジバだと言われるのです。それほど愛されているのです。この御言葉を握る民は、どれほど喜んだことでしょうか。4〜5節で強調されていることは、「喜び」です。今、私たちには、様々な問題があり、時には見捨てられ、荒れ果てているように見られるかもしれません。しかし、この御言葉を握るならば、神が私たちを見て、「あなたはわたしの喜びだ」ということを聞くことができます。
 神様から、「あなたはわたしの喜びだ」と聞くならば、どれほど驚き、感激することでしょうか。「人とは、何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何者なのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」と言わざるを得ません。詩篇8:4。私たちは、ヘプジバです。神が喜んで、愛してくださる神の子どもだという自覚を持つべきです。
 私たちの罪のために十字架で死なれたイエス様を信じて救われた私たちは、罪赦されて、天国への命を与えられ、神の子どもとされました。それは、神様に守られ、育まれ、導かれるヘプジバと呼ばれる存在になったのです。ヘプジバの名に相応しい生き方をしたいです。
 私たちにも、親から付けられた名前の意味があります。私たちの子どもに思いを込めて名前を付けました。それに相応しく生きるように願い、祈りたいと思います。
 イエス様によって救われた私たちは、見捨てられたのではありません。私たちの地が荒れ果てているわけではありません。ヘプジバです。神様から「あなたはわたしの喜びだ」と呼ばれる者です。そのことを忘れないでください。Tテサロニケ2:19〜20。



イザヤ62:1 シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、沈黙はしない。その義が明るく光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。
62:2 そのとき、国々はあなたの義を、すべての王があなたの栄光を見る。そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。主の御口が名づける名で
62:3 あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。
62:4 あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。それは、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。
62:5 若い男が若い女の夫となるように、あなたの息子たちはあなたの夫となる。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。


Tテサロニケ2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

U列王21:1 マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。彼の母の名はヘフツィ・バハといった。

詩篇8:4 人とは、何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何者なのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

Tテサロニケ2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。


ローマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

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