2024年8月4日「救いが来れば、さばきも来る」イザヤ63:1〜6
序−捕囚からの帰還民に対する励ましや慰め、祝福が続いていました。意気消沈し、喪失感にさいなまれていた民は、どれほど励まされ、希望を与えられたことでしょうか。しかし、ある人たちは、恵みに慣れ、有難味を感じない人もいたようです。現代でも、救いの恵みをあまり感じていない聖徒たちがいます。神様をただ救いを与えてくださるお方であると理解するだけで、裁きを下される方だとは考えないからです。神様は、そんな民に対して、救いと裁きについて取り上げて、救いの恵みを深く認識させてくださいます。
T−深紅の衣を着て来る者−1〜
これまで民に対する励ましや祝福が繰り返されていたのが、今日の個所では、色調が変わったかのような内容となります。それも、興味を持って聞くように、誰かの質問に神様が答える形式を取っています。第一の質問は、1節前半。「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は。だれか。」私たちには、突然エドム、ボツラって何?という感じでしょう。
しかし、帰還の民には、よく分かる表現です。エドムとは、ヤコブの兄弟エサウのことで、その子孫がエドム人で、その国がエドムです。創世記25:30。ボツラとは、エドムの主要都市です。イスラエルの民がエジプトから出てカナンに向かう時、エドムは妨害しました。民数記20:17〜20。エルサレムが滅びて民が捕囚になった時、エドムはそれを喜びました。そんな神の民を苦しめていた邪悪なエドムは、裁きの代表として出ています。
そして、エドムから来る方は誰か、ボツラから王様のような深紅の衣を着て来るこの者は誰かという質問に対して、神様は「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者」と答えておられます。神は、正義を語る方、つまり裁きを行う方だということです。そして、救いを成し遂げる力のある方であると教えられています。ユダが滅ぼされる前、ユダの民は神の裁きと悔い改めを説く預言者に聞かず、迫害し、牢に入れました。結果、バビロン捕囚という裁きを受けたのでした。
「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者」とは、イエス様の預言だと言われています。神様は、人々を救うために、ご自分のひとり子イエス様を世に与えられました。ヨハネ3:16。ここでも、「一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つために来られた」とあります。人が滅びることがないように救ってくださることが教えられています。確かにイエス様は、穏やかで慈悲深いお姿でしたが、同時に偽善で傲慢なパリサイ人などに対しては怒り、呪いを宣言されました。
罪や不義に対する神様の怒りや裁きがなければ、十字架も必要がなくなります。イエス様の十字架は、人の罪に対する神の御怒りによって正義を満たすために行われた裁きでもあるからです。イエス様の十字架の犠牲によって、信じる者は恐ろしい裁きから免れたのです。神様の救いは、正義と直結していました。私たちは、イエス様の十字架の犠牲による救いを受け入れるだけでなく、神様の正義に基づいた裁きをも真剣に受け止め、その正義に基づく生活をしていかなければなりません。
ご自分のひとり子を十字架に差し出してくださった慈悲深い神様と裁きを下す神様を関係づけることがないのであれば、救いの恵みが分からなくなります。救いの恵みに慣れ、有難味を感じなくなります。恵みの分かち合いでなく、噂話が多くなります。
U−ぶどう踏みと滴り−2〜3,6
救い主は、「ボツラから深紅の衣を着て来る」という姿で描かれています。その意味が次の質問として出されています。2節。「なぜ、あなたの装いは赤く、衣はぶどう踏みをする者のようなのか」と質問されています。神の民がぶどうを絞る時、大きな入れ物に収穫したぶどうを入れ、足で踏みつけると、その汁が流れ出て来ます。その時、そんなに気をつけても、ぶどうの汁が飛び散って、服に付くことになります。小さい子が果物を食べた時、服に果物の汁が飛び散りますね。
しかし、ここでは、そんなほのぼのとした光景ではなく、神様の裁きの痛みが描かれています。悪者たちが裁きを受けるシーンが、あたかもそのようだというのです。3節の答えを見ましょう。「神様が怒って悪者を踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血の滴りがわたしの衣にはねかかった」と言っています。
エドムは赤を意味しています。創世記25:30。赤は血のイメージです。ボツラの派生語には、ぶどう摘みの意味があります。言葉の連想とぶどう絞りの光景を用いて、裁きの凄惨さをイメージさせているのです。民はよくイメージできたでしょう。
この裁きの対象は、エドムという一民族ではなく、諸国の民に広がっています。3,6節。すべての民が罪の裁きの対象でした。ここで注目すべきは、その裁きの中で、「彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしのよそおいをすっかり汚してしまった」ということです。救い主が血だらけになられたということです。そもそもその衣の色は、始めから深紅でした。救い主イエス様の犠牲が預言されています。
イエス様は、十字架に向かう時の装いはどうでしたか。マタイ27:28〜29。ローマ兵は、イエス様に緋色のマントと着せ、いばらの冠をかぶらせて、王様万歳と言ってイエス様をからかいました。背にむち打たれ、両手両足を十字架に釘打たれ、槍で脇腹を刺されたイエス様は血だらけでした。ヨハネ19:34。十字架を前に祈っておられたイエス様から汗が血のしずくのように落ち、その場所ゲツセマネとは、油絞りの意味です。ルカ22:44.マタイ26:36。まさに、イエス様が絞られたぶどうのように、踏みつけられ、苦しまれ、血を流され、人々の罪のために犠牲となられたのです。
「わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった」というように、裁かれた神の怒りをイエス様が万民のために代わりに身に負われ、踏みにじられたのです。ですから、イエス様の十字架の犠牲による救いを覚える時、それが同時に自分が受けるはずだった罪の裁きの悲惨さをしっかり覚えてこそ、救いの恵みを深く感じることができるのです。
V−復讐の日と贖いの年−4〜5
4節には、復讐の日がわたしの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだと言われています。恐ろしい裁きが来る前に、光があるうちにイエス様を信じなければなりません。Uペテロ3:9, ヨハネ12:36。「復讐の日」とは、エドムに代表されるように、悪の勢力が神様によって徹底して踏みにじられる裁きを意味しています。しかし、神様は、同時にこの日を「贖いの年」と言われます。裁きが来れば、救いも来ます。ここに神様の深いあわれみと救いのご計画があります。悪者への神様の裁きの日は、神の民への解放と救い日となります。捕囚からの帰還民にとって、バビロンが滅ぼされた日は、同時に神の民の贖い、解放と救いの日となりました。イエス様が再臨されて裁きを行う時、信じている者には救いの日となります。
私たちが患難に出会い、苦しみ恐れる時、そこにも神の救いがあることを思い、神の愛と哀れみ、守りが導きあることを覚えたいのです。問題に苦しんだとしても、神の民として確信をもって神様に信頼し、正義を行い、敬虔な生活を生きるようにしたいのです。
5節に「助ける者はだれもなく、支える者がだれもいないことに唖然とした」とありますが、「唖然とした」という原語は、驚いた、失望したという思いを伝える言葉です。救いも裁きもイエス様お一人でされたということが強調されています。救いのために人が用いられたとしても、神の道具に過ぎないことをはっきり知らなければなりません。高慢になってはなりません。人々が救われ、導かれることにただ感謝するのです。
今日の箇所の表現は、残忍で凄惨な印象を受けるところです。神様は残酷なのでしょうか。血を流すことが好きなのでしょうか。神様は、そういうお方ではありません。神様がこのようなことを行われるのは、悪を滅ぼし、正義を打ち立て、御自分の民を守り、救いを成し遂げるためです。裁きから人を救おうとされる神様の熱心が裁きの悲惨を教えておられるのです。このことを私たちは明確に覚えなければなりません。神様の愛は、私たちが罪と死のしもべとして生きていた時に、御子イエス様を遣わして、私たちを罪と死から救い出してくださいました。ローマ8:1〜2。イエス様の十字架を信じた者を子としてくださいました。ガラテヤ4:4〜5。
6節でもう一度、神様の怒りと憤りで罪人が踏みつけられ、裁かれることが繰り返されています。「踏みつけた」とは、壊したという意味です。神様の裁きが完全ということです。イエス様の十字架を信じる以外、免れることはできません。ですから、私たちは、「一人でも滅びることなく、永遠のいのちを得るように」と救い主イエス様を伝えたいのです。救いが来れば裁きも来るということを知れば、私たちは切実に伝えなければと思わされるのです。ローマ8:1〜2。
イザヤ63:1 「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は。だれか。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る。」「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者。」
63:2 「なぜ、あなたの装いは赤く、衣はぶどう踏みをする者のようなのか。」
63:3 「わたしはひとりでぶどう踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしのよそおいをすっかり汚してしまった。
63:4復讐の日がわたしの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ。
63:5見回しても、助ける者はだれもなく、支える者がだれもいないことに唖然とした。それで、わたしの腕がわたしの救いとなり、わたしの憤りを、それがわたしのささえとなった。
63:6 わたしは怒って諸国の民を踏みつけ、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血の滴りを地に流れさせた。」
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
マタイ27:28 そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
27:29 それから彼らはいばらで冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。
Uペテロ3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではありません。あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
ヨハネ12:36 自分に光がある間に、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って、彼らから身を隠された。
ローマ8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法から、あなたを解放したからです。
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