2024年8月11日「豊かな恵みを思い出す」イザヤ63:7〜14

序−親は子どもを叱っても、子に対する愛情がなくなるわけではありません。愛情を注ぎ続けます。親に反発していた子どもも、親に対する感謝を思い出すと反発をやめ、変わって来ます。慈愛の神様が63章の始めで怒りの裁きに触れた後、民は神様の恵みを思い出すようになります。

T−主の恵み深い行いを思い出す−7〜8
 バビロン捕囚から解放されて帰還した民は、廃墟となった都エルサレムを見て愕然とし、失望落胆し、喪失感にさいなまれました。そんな民に神様は繰り返し祝福と希望を語りかけてくださった後、民に対する怒りの裁きに触れました。イザヤ63:1〜6。そこから民の心に変化が起こります。まず、預言者は、繰り返し神様の恵みを思い出しています。7節。直訳は、「私は主の恵み深い行いを思い出す」となります。7節の「語りつげる」と11節の「思い出す」は同じ原語です。「豊かな恵みを思い出す」と繰り返しています。絶望にも思えた捕囚から解放してくださり、エルサレムへ帰還させてくださいました。驚くべき恵みです。
 私たちは、感謝しているでしょうか。私たちは日々の生活の中で恵みを覚えてどれほど感謝しているでしょうか。うまく行っていれば感謝できるということではありません。信仰が成熟して行くならば、感謝の気持ちが出て来るのです。今ここまで歩むことができたのは、神様の恵みです。ですから、イエス様を信じて救われた聖徒たちには、「あふれるばかりに感謝しなさい」と言われています。コロサイ2:7。人生は文句を言いながら生きることができますし、日々恵みを感謝しながら生きることもできます。どちらを選ぶかは、私たち次第です。
 帰還した民は、三つの恵みを思い出しています。一つは、神様が民に対して「彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と言われたことです。8節。イエス様を信じて救われた私たちは、神の子とされました。ヨハネ1:12。ですから、私たちは救われたことを喜び、救いの恵みに感謝し、救われた者としての栄光を忘れてはなりません。これが救いの土台だからです。民が救いの恵みを忘れたことがあります。でも、民が「神様は私たちの神だ」と言ったのではなく、神様が「彼らはわたしの民だ」と言われたのです。これが、神様の恵みです。神様が私たちを救いの恵みに呼んでくださったのです。私たちがイエス様を信じて救われたことを忘れてはなりません。
 ここで、「彼らはわたしの民だ」と神様が言われたことは、神様がこの民をご自分の民として選ばれたから納得できますが、「偽りのない子どもたちだ」というのは何かの間違いではないでしょうか。本当に彼らは過ちを犯さなかったのですか。神様に逆らい、神に仕えると言いながら偶像に仕え、偽りを行っていた民ではないですか。
 これは、自分の罪と悪い行いについて、素直に認める者だということです。嘘をつかないのではなく、嘘をついたなら、それが罪だと認め、悔い改める者だということです。私たちも、救われた後も罪を犯してしまいます。しかし、以前それが罪と分からず過ごしていた時とは違うということです。自分の罪が分かるようになります。
 ですから、神様は、ご自分の民を「偽りのない子たちだ」とみなしてくださるというのです。子どもを愛する親は、たとえ子どもが過ちを犯したとしても、親の心を傷つけたとしても、悪く言って見捨てることはしないでしょう。子どもを受け入れて、愛し続けるでしょう。神様は、しばしばご自分に背を向けて偶像に仕える民を戒めることはあっても、見捨てることなく助け出してくださいました。
 私たちは、どうでしょう。神様に背を向け、不従順になることもあります。失敗や罪も犯してしまいます。そんな時、「私は神の子の資格はない」と思ってはなりません。それはサタンの誘いです。イエス様の十字架によって救われ、罪赦された私たちは、神の子とされました。ヨハネ1:12。それゆえ、神様が私たちを「偽りのない子だ」と見てくださるのです。文句や不平を言ったとしても、窮地に陥って助けを叫んだなら、助けてくださいます。どんなに大きな恵みでしょうか。

U−民が苦しむときには、主も苦しみ−9〜
 二番目の思い出した恵みは、「民が苦しむときには、主も苦しまれた」ことです。9節。民のすべての苦しみに神様も参加してくださったということです。神の子どもになったからと苦難がなくなるわけではありません。しかし、驚くべきこと私たちが出会う苦難に参加しておられるというのです。神様が私たちの困難に一緒にいてくださるのです。私たちの苦しみや問題、痛みや病とともにいてくださるのです。
 子どもが親に反発している時には、自分の悩みでいっぱいなので、親の心の痛みなど思いやることがありませんが、後にはどれほど自分のことで親が苦しんでくれていたか分かるようになります。神の民が不従順のために苦難に陥った時、苦しみの中で神様から見捨てられたと思うのですが、神様は、「母親が赤ちゃんを忘れるだろうか。たとえ忘れることがあっても、わたしは民を忘れない」と言われました。イザヤ49:15。
 私たちが苦難や問題に出会った時、神様は私たちを助けてくださいます。私たちが苦しくて耐えられず倒れてしまう時も、私たちのそばにいてくださいます。脱出の道も備えてくださいます。ローマ8:28。私たちの思いを開き、私たちの心の目を開いて、神様の方法を見せてくださいます。神様を信頼することです。詩篇23篇の記者も、「私は乏しいことがありません。私は災いを恐れません。神様がともにおられるから」と証ししています。
 神様は、民が苦しむ時ともに苦しんでくださるだけでなく、「主の臨在の御使いが彼らを救った」とあります。救い主イエス様を送って、救ってくださるということです。救い主イエス様は、人の罪の身代わりとして十字架に苦しまれました。
 イエス様が迫害者サウロに現れた時、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とイエス様の声が聞こえるのですが、サウロはイエス様を迫害してはいません。使徒9:4〜5。どうしてそんなことを言われたのでしょう。聖徒たちを迫害したことが、イエス様を迫害したことだということです。聖徒たちの苦しむ時一緒だったということでです。イエス様は、私たちが苦しむ時、一緒にいてくださり、ともに苦しんでくださっておられると分かれば、どれほど慰められ、励まされることでしょうか。
 9節の最後には、「昔からずっと、彼らを背負い、担ってくださった」ことを思い出してと言っています。私たちの救い主は、私が苦しむ時、私のために痛み苦しみ、私を救い、私を背負い、担ってくださるお方なのです。このことを発見することができた聖徒は、ただただ神の豊かな恵みに感謝するほかはありません。

V−古のモーセの日を思い出した−10〜14
 民はどんな時に、神様の豊かな恵みを思い出してのでしょう。10節。神様に逆らって、怒りの裁きを受け、苦しんだ時です。11〜14節。苦しんだ「そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した」と言っています。出エジプトの出来事を思い出したのです。神様がエジプトの奴隷の苦しみから助け出し、奇跡をもって紅海を渡らせ、荒野を導いて、約束の地へ入らせてくださいました。
 そのようにしてくださった「神はどこにいますか」と3回も繰り返し尋ねています。なぜ今は私たちを見捨てておられるのかと何か文句のように聞こえますが、そうではありません。過去の神様の自分たちを守り導いてくださった神様を思い出し、今もその神様は変わらずに自分たちを守ってくださるはずだと告白しているのです。
 その証拠に、最後の14節で、そのような神の慈愛と恵みが賛美されています。「このようにして、あなたはご自身の民を導き、ご自分のために輝かしい御名をなされました」と神を褒め称えています。こうして、国が滅び、都は破壊され、捕囚となった神の民は、バビロンから救い出され、エルサレムに帰還することができました。これからもそうだ、神様は苦難のところから救い出してくださると告白しているのです。
 私たちも、患難の時、苦しみの時、迷う時、神の豊かな恵みを思い出したいのです。自分自身に言いたいのです。あの時あのように守ってくださった神様はどこにおられるのですか。その時そのように導いてくださった神様はどこにおられるのですか。そのように自分に問えば、私たちの心に神の豊かな恵みが思い出され、今の苦しみからも解放してくださる、これから難しい歩みも導いてくださると確信と希望が与えられるのです。
 今日、神様がこんなに豊かな恵み深いお方であることに気付かれた方もおわれるでしょう。神様の慈愛と恵みに気付かないで、事がうまくいかなければ神様に文句を言い、願いが聞かれないと思えば神様に背を向けたりしたかもしれません。それでも、神様は、私たちを「わたしの民、偽りのない子たち」と呼んでくださいます。私が苦しむときには、いつも主も苦しみ、私を背負い、担ってくださいます。
 私たちは、この神の豊かな恵みどのように応えますか。私たちの残りの人生を痛みと苦しみ、文句と不平に満ちたものにするのでしょうか。私たちが神様の恵みに感謝し、豊かな導きを確信し、慈愛を賛美して、神様とともに生きていきて行く一人一人となることを願います。哀歌3:21〜22。



イザヤ63:7 私は主の恵みを語り告げる。主の奇しいみわざの数々を。主が与えてくださったすべてのことを。そのあわれみと豊かな恵みにしたがって与えてくださった、イスラエルの家への豊かな恵みを。
63:8 主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして主は彼らの救い主になられた。
63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、担ってくださった。
63:10 しかし、彼らは逆らって、主の聖なる御霊を悲しませたので、主は彼らの敵となり、自ら彼らと戦われた。
63:11 そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。彼らをご自分の群れの牧者たちとともに彼らを海から導き上った方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。
63:12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、
63:13彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。荒野の中を行く馬のように、彼らはつまずくことはなかった
63:14谷に下る家畜のように、主の御霊が彼らをいこわせた。このようにして、あなたはご自身の民を導き、ご自分のために輝かしい御名をなされました。


コロサイ2:7 キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。

ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

使徒9:4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

哀歌3:21 私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。
3:22 主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみは尽きないからだ。

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