2024年8月18日「切実な逆説的祈り」イザヤ63:15〜19
序−民は、神様の祝福とあわれみを繰り返し聞き、神様の豊かな恵みを思い出しました。しかし、現実の厳しい環境の中で、それなのにどうしてこんな状況なのかと嘆き、神様に文句を言う者もいました。心痛めたイザヤは、彼らの言葉を使って祈りをしました。文句や勝手な祈りのようなのですが、心揺さぶられる切実な祈りです。
T−熱心と力あるみわざはどこに−15〜16
まず、15節の祈りです。「あなたの熱心と力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか」と文句を言っているような祈りです。確かに、苦しみと絶望的な状況の中で、民はこのようなことを言っていたのでしょう。「神様の熱心と力はどこにあるのですか。我々はこんな状況です。我々に対する神様の慈愛とあわれみがあるのならば、それを抑えておかれるのではないですか」と不信感をあらわにするのです。私たちも問題の中で、そのような文句を言ったでしょうか。
イザヤは、民の現実の状況を「天から見おろし、ご覧ください」と切実に祈っています。必死に叫んでいます。自分たちの状況を見てほしいのです。見ておられることを分かっています。詩篇139:3。まるで神様が見ていないように感じる悲惨な状況だとしても、神様は見ておられる。知っておられるという信仰が、ここにはあります。
ですから、16節で神様に対する信仰を告白しています。「あなたは私たちの父です」と繰り返しています。たとえ、神の民の先祖、アブラハムやイスラエルが自分たちを認めないことがあったとしても、神様、あなたは私たちの父ですと告白しています。私たちは、イエス様を信じて神様の子どもとされています。ヨハネ1:12。それによって神様を「アバァ、父よ」と呼ぶことができるようになりました。ローマ8:14〜15。子は、親を信頼して、あれこれ願うのではないでしょうか。神の子どもも同じです。
ですから、イザヤの祈りは、神様の熱心とたぎる思いを確信しているのです。文句ではありません。不信で言っているのでもありません。「神様あなたの私たちに対する熱心もたぎる思いも信じています。だから、熱心と力あるみわざをここにあらわしてください。私たちへのたぎる思いとあわれみを抑えないでください」と懇願しているのです。
私たちも、困難な状況や問題の渦中で、神様への不信や文句を言うより、神様の私たちに対する熱心や力あるみわざが自分の状況で行われるように祈りましょう。神様のたぎる思いとあわれみを自分のことにあらわしてくださいと懇願しましょう。
神様が自分を見ておられるという信仰を持ちましょう。弱く、傷つき、うめき祈るご自分の民を、神様は決して無視しないで、彼らを見守る方であることを神の民は確信していました。詩篇139:3。このイザヤの祈りには、揺れることのない確固たる信仰があります。
神の御名は、「私たちの贖い主です」と言っています。罪人であった私たちがイエス様の十字架の贖い、つまりイエス様の十字架の犠牲という代価を払って買い取られたので、罪赦され、神の子どもとされました。この救いがどんなに凄いことか、私たちは確信しなければなりません。たとえ問題が起こったとしても、一時期状況がうまく行かないとしても、「神様の慈愛とあわれみはどこにあるのか、私に対する熱心やたぎる思いがないのか」などと愚かに言うのではなく、「熱心と力あるみわざをここにあらわしてください。私へのたぎる思いとあわれみを抑えないでください」と懇願したいのです。
U−なぜ道から迷い出させるのですか−17〜
17節の祈りも変です。この「なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心を頑なにして、あなたを恐れなくされるのですか」と文句を言っているようです。でも、この表現はおかしいです。神様が民に罪を犯すようにさせるはずはありません。確かに、民の中には、そのように言う者もいたかもしれません。自分が神様から離れて、迷い出て偶像に行ってしまったのを神様のせいにする者もいたでしょう。自分が悔い改めないで不信仰のまま頑なになっているのも、自分が神様を恐れなくなったのも、神様がそうさせたと思い違いする者もいたでしょう。
確かに、人の罪の性質には、何でも他人のせいにするということがありますから、自分の不信仰や悔い改めない頑なさを神様のせいにすることもあるでしょう。しかし、イザヤは、そう言っているのではありません。神様を離れてしまい、頑なになってしまった神の民の切なる心を逆説的に言っているのです。民が言うそんな文句や間違った声を逆説的に用いたのでしょう。神様に対して文句や不信をぶつける彼らに、自ら罪を悔い改めて立ち返る力がありません。神様のあわれみによって、立ち返られるようにしてもらう必要があります。御言葉に心揺さぶられてこそ、悔い改めることができます。私たちもそうではありませんか。
17節の後半で、「どうかお帰りください」と神様に懇願しています。でも、神様が民を離れたのではなく、神の民が神様から離れてしまいました。「どうかお帰りください」という言葉も逆説的です。民の心は頑なです。民は神様を恐れなくなっています。「私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心を頑なにして、あなたを恐れなくされるのですか。神様、そんなことはなされないでしょう。あなたの前に立ち返らせてください」と祈っているのです。使徒たちがイエス様の福音を伝えて「悔い改めて、神に立ち返りなさい」と言いました。使徒3:19。私たちは、何でも、自分の罪の言動についても神様のせいにしていないでしょうか。それをやめて神様に立ち返りましょう。
イザヤの逆説的な祈りは、神のあわれみを求める切実な祈りです。イザヤは、「彼ら」と民たちだけを言わず、終始自分を含めて「私たち」と祈っています。預言者として神様の御言葉を伝えたイザヤは、民から反発や迫害を受け、民の罪と頑なさをよく分かっています。民から苦しめられたにもかかわらず、「私たち」と言って、切実に祈っています。彼らの苦しみを自分の苦しみとしたのです。民と一緒に苦しんだのです。イザヤの祈りの切実さが伝わって来ます。分かっていない民のために切実にとりなして祈っているのです。
人々に救いの福音を伝えたイエス様に対して、頑なな人々は、イエス様に反発し、イエス様を迫害し、十字架にかけてしまいました。そんな人々について、イエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか自分で分かってないのです」ととりなし祈ってくださいました。ルカ23:34。私たちも、分からないで頑なな時があります。イエス様のこの祈りで救われているのです。
V−支配されたことも、御名で呼ばれたこともない?−18〜19
最後の部分では、民の惨状を嘆いて祈っています。18節。エルサレム神殿はバビロンによって破壊されたまま、廃墟となっています。神殿、すなわち聖所は、神の民が礼拝をささげ、神を覚える所です。たましいの拠り所でした。その聖所が蹂躙されたということは、神の民にとって大変な屈辱であり、心が踏みにじられたことになります。どんなに心が痛いことでしょう。私たちも、何かのことで、心が踏みにじられる経験をすることがあるでしょう。心が痛くなる辛い経験です。
聖所を踏みにじられたということは、そこで御言葉を聞くことができなくなったということです。神様を覚えることがなくなって来るということです。神の民にとって、これ以上の悲しみはありません。そうなると、どんな嘆きを言うようになりますか。19節。「私たちは、とこしえから、あなたに支配されたこともなく、御名で呼ばれたこともない者のようだ」と民は言っていたのです。イザヤも、民の嘆きをもって祈りました。この表現は、事実ではありません。間違っています。
確かに、神様に背を向けて、自分勝手に偶像へ向かう民は、神様に支配されたことがなく、神から呼ばれたことがない者のようです。でも、彼らは神様からご自分の民とされた神の民です。神様から愛され、守られ、導かれた神の民です。神の民が神様から離れては、主の御名で生きることはできません。まさに彼らの心は、踏みにじられた、痛んだ心です。
ですから、この嘆きの祈りも、逆説的祈りです。聖所を踏みにじられ、心が神様から離れた民を、神様の支配の中で生きるようにしてください、神様から呼ばれる民にしてくださいと懇願しているのです。神の民は、神様の支配の中で生きてこそ、真にたましいが生きる者となります。私たちが救われる以前、自分勝手に歩んでいた時は、罪と死の原理に支配され、肉によって歩んでいました。しかし、イエス様の十字架を信じて救われたなら、神様によって導かれる人生となりました。ローマ8:1〜2。
それなのに、試みの嵐の中で信仰を揺さぶられ、神様に支配されていないように、神の子供とされていないかのようになるかもしれません。そんな時には、神様に支配されていない、呼ばれていないと、神様か道を迷わせ、私を頑なにさせたと、逆説的でもいいから切実に祈りたいと思います。試みの渦中にある人のため切にとりなし祈りましょう。主が祈りに答え、取り扱ってくださいます。詩篇146:5。
イザヤ 63:15 どうか、天から見おろし、ご覧ください。あなたの聖なる輝かしい御住まいから。あなたの熱心と力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか。
63:16 まことに、あなたは私たちの父です。たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主です。」
63:17主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心を頑なにして、あなたを恐れなくされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。
63:18 あなたの聖なる民がこの地を所有して間もなく、私たちの敵はあなたの聖所を踏みつけました。
63:19 私たちは、とこしえから、あなたに支配されたこともなく、御名で呼ばれたこともない者のようです。
詩篇139:3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。
使徒3:19 ですから、悔い改めて、神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。
ローマ8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の原律法からあなたを解放したからです。
| 戻る |