2024年8月25日「待つことは希望」イザヤ64:1〜7

序−荒廃した都を見て、「熱心と力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか」と嘆いて文句を言っていうような祈りがありました。63:17。しかし、嘆くしかない状況であっても祈ることができるということは、希望につながります。それに続く今日の箇所の祈りがそれを教えています。

T−圧倒的な神様の介入を−1〜3
 絶望して嘆くしかないの状況ではあっても、祈り求めるべきことがあります。それは、何でしょう。1節。神様が「天を裂いて降りて来られる」ということです。神様が降りて来られるということは、つまり神様の介入です。どんなに状況が厳しくても、嘆くしかない状況だとしても、神に出番を求めることができます。神様の介入を求めるのです。神様が天から降りて来られることこそ、問題が解決へ向かいます。神様が介入されると、事が動き出します。
 神様の介入されるということは、どんな様子ですか。2〜3節。「火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるようになり、山々が揺れ動く」のです。火は神様の臨在を示すものです。燃える柴となって、モーセの前に現れました。火の柱となって、荒野で民を導かれました。困難とは、まるで巨大な山が神の民の行く手を塞いでいるようです。その山々が神様の御前で揺れ動くというのです。
 帰還した民にとって、廃墟の現実は、大きく立ち塞がる巨大な山なのです。しかし、神様が天を裂いて降りて来られると、巨大な山のような困難でも、火で燃やされるように、水が沸騰するように消えてしまうというです。昔、神の民がエジプトで奴隷となっていた時、支配するエジプトに抵抗することはできませんでした。出エジプトは、山のような存在でした。でも、出エジプトは、その山のような支配を崩したのです。
 今そのような奇跡を起こしてくださいと祈っているのです。私たちの人生にも、しばしば問題が壁のように立ち塞がります。ときには、絶望が巨大な山のように行く手を阻みます。そんな時、私たちは、今日の箇所のような祈りをしなければなりません。私たちの神は、天地万物を創造し、支配しておられる神なのだということをしっかり確信する必要があります。イエス様の弟子たちがガリラヤ湖で嵐にあった時、イエス様が同乗されていなかったので弟子たちは一晩中恐れ苦しみましたが、イエス様が湖を渡って来て舟に乗り込まれると、嵐は静まりました。マルコ6:47〜51。
 私たちの人生にも、ガリラヤ湖の嵐のように問題の嵐が起こります。私たちは小船のように揺れ動き、漕いでも進まない時があります。暗やみが続き、助けを求めることすらなくなります。そんな私たちを主は見ておられ、近づいて来てくださいます。出エジプトも、苦しんでいた民の叫び声を聞いたから、神様が介入してくださいました。出3:9〜10。ですから、問題という人生の嵐に翻弄される時、私たちは神様に祈り、懇願するのです。
 私たちは、問題の大きさ、状況の難しさばかり考えてしまいますが、状況の難しさが問題なのではなく、神様の介入があるかないかが問題なのです。「山々はあなたの御前で揺れ動き、火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように」される神様の圧倒的な御力を求め、神様の介入を願い、神様の出番を私たちは懇願します。すると、神様が天を裂いて降りて来られ、私たちの問題に介入してくださいます。

U−神を待ち望む−4
 そのためには、何が必要なのでしょうか。4節。神様の介入を待ち望まなければなりません。神様が介入されると絶望が希望に変わります。そのために、神様の臨在と働きを待ち望みます。山のような障害物が私たちの前を塞いでも、天を裂いて降りて来られる神様が、山を崩し、火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるようにされる、その時を待ちます。
 天を裂いて降りて来られる神様は、ユダを滅ぼしたバビロンを、ペルシア王キュロスを用いて、あっと言う間に滅ぼされ、民を捕囚から解放してくださいました。待ち望んだからこそのことでした。でも、解放されて、エルサレムに帰還しても、待ち望むことが必要でした。廃墟を見た人々は、絶望し、喪失感におそわれました。嘆き、悲しみましたが、神様の介入を待ち望まなければなりませんでした。詩篇42:11。
 待つということは、中々しんどいです。痛みを伴うこともます。待っている間、生活の大変さを味わい、暗さの中を歩むこともあります。弟子たちもイエス様に、「主よ。いつ来られますか」と訪ね、待つことをしています。ルカ24:3。
 イエス様が世に来られたことは、まさに神様が天を裂いて降りて来られたことです。しかし、救い主が来られたにもかかわらず、心から迎えた人は多くありませんでした。救い主の来られることを待ち望んでいた人々が、飼葉桶に寝かされたイエス様を迎えました。時代が難しいほど、待ち望みます。何かを待ち望むことは、希望を持つことになります。まつことは希望です。待ち望むことを考えてみましょう。
 まず、待ち望むことは、恵みであり、祝福です。待ちの望なければ、そこで終わります。信仰の父となるアブラハムは、約束の息子を待っていました。子孫が空の星のように、海の砂のようになる祝福を待っていました。そして、その祝福を得ることができたのは、どんなに状況が難しくなっても、忍耐し、待ち望んだからです。ヘブル6:15,10:36。
 そして、待ち望む確信が必要です。神様が介入してくださることを待つ確信を持たなければなりません。私たちの人生には、私たちを揺さぶることがあまりにも多いです。問題が大きな山のように立ち塞がります。でも、御言葉の真理によれば、揺れません。クリスチャンの場合、天国で主と会うことを待ち望みます。主の再臨を待ち望みます。待ち望ことは大切です。待ち望みの神学と言ってもよいでしょう。ですから、人生において、神様の介入を待ち臨むのです。
 祈りながら、待ち望みます。待つ間、祈るべきです。神様が天を裂いて、降りて来られるように懇願します。山のような問題を崩し、障害物を火で燃やしてしまいます。「神様、出番です」と呼び、「降りて来てください」と、求めます。初代教会の聖徒たちは、よく「主よ。来てください(マラナ・タ)」と祈りました。Tコリント16:22,黙示録22:20。神様の来られることをさらに待ち望みましょう。

V−悔い改めが必要−5〜7
 待つために最も必要な備えは、悔い改めです。5〜7節。神様の介入を待ち望んで、悔い改めることです。1〜4節は、神様の姿に集中していますが、5〜7節は、人々の姿に集中しています。悔い改めの告白は、神様の御前に自分の姿を悟ったことが記されています。
 神様は、民が罪の中にいたので、激しく怒られましたと言い、「私たちは救われるでしょうか」と神の救いを期待すらできない心情を吐露しています。罪ある自分たちを「不潔な衣のよう、枯れ葉のよう」だと言っています。6節。さらには、「主の御名を呼ぶ者はなく、奮い立って、神様にすがる者もいない」と告白しています。神様が自分たちから御顔を隠したならば、あわれみすら受けられなくなると告白しています。7節。1〜3節のような神様の圧倒的な偉大さと御力を覚えたならば、自分たちの罪の性質と汚れた姿を知らざるをえません。
 しかし、イザヤはこうまで悔い改めることで、神様が降りて来られて、自分たちを取り巻く困難に介入してくださるように待ち望んだのです。私たちも、1〜~3節のような神様の圧倒的な偉大さと御力を覚えるならば、自分たちの罪の姿を知るようになり、御前に悔い改めざるをえなくなります。そうしてこそ、神様に真実に拠り頼み、問題への介入を待ち望むすることができるようになります。待ち望むことに必要なことが悔い改めであるなら、悔い改める者は、神様に希望を置いて悔い改めなければならないということになります。これからの私たちの悔い改めは、神様に希望をおいて悔い改めることになります。
 最後に強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人精神科医ヴィクトール・フランクルは、収容所という絶望的な環境の中で希望を失わなかった人たちの姿から苦境に陥った時の希望の持ち方について書いています。「私たちは、自己実現が約束されている環境こそが幸せだと思っている。しかし、災害や病気などに見舞われた時、その希望はついえる。収容所はその最悪のケースだ。被収容者にとってもっとも辛かったのは、この状況がいつまで続くか分からないということだった。生きる目的を見出せず、崩れていった。家族愛や仕事への献身など様々な使命感を持って生き、どんな状況でも今を大事にして本分を尽くし、人の役に立つこと。そこに生きがいを見いだすことが大事なのではないか。どんな状況でも一瞬一瞬を大切にすること。それが生きがいを見いだす力になる」
 今日の御言葉から知ることは、環境と生活が難しいほど、人々は、より大きな希望を持つことになるということです。希望を持つことは、待ち望むことです。待ち望む人だけに希望があるということです。どんなに難しい状況であっても、希望を持たない者は、待ち望みません。御言葉は、困難の中で神様の介入を待ち望む信仰を強く教えています。詩篇42:11。



イザヤ64:1 ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々はあなたの御前で揺れ動きます。
64:2 火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々はあなたの御前で震えます。
64:3 予期しない恐ろしいことをあなたが行われるとき、あなたが降りて来られ、山々はあなたの御前で揺れ動きます。
64:4とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が自分を待ち望む者のために、このようにするのを。
64:5 あなたは会ってくださいます。喜び、正義を行う者のために。彼らは、あなたの道であなたを心に留めます。実にあなたは激しく怒られました。私たちはその道で久しく罪の中にいたのです。私たちは救われるでしょうか。
64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。
64:7 しかし、あなたの御名を呼ぶ者はなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎によって、私たちを弱められました。


出3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

詩篇42:11 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。

ヘブル6:15 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。
10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

黙示録22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください

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