2024年9月1日「私たちは粘土で、主は陶器師です」イザヤ64:8〜12
序−人は時に、これも駄目あれも駄目になった、こんなことが起こりあんなことも起こったというように次々と問題が起きたり、事がうまく行かなくなったりすると、もう嫌だ、駄目だと絶望したり怒ったりすることがあります。苦難が続く中で神の民がどうしてそうならなかったのでしょうか。
T−宮は焼かれ、都は荒れ果てています−10〜12節
エルサレムに帰還した民は、都の余りの荒廃ぶり落胆し、あれもこれも期待とは違い、なにもかもうまく行かないと思う時があったようです。その落ち込みぶりが10〜11節に記されています。落胆して嘆く息遣いが聞こえるようです。「聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています」と繰り返しています。心が荒廃して、なにもかも駄目だ、まったく望みがないという嘆きがあふれています。先祖たちが主なる神を礼拝していた美しい神殿は火で焼かれ、すべては荒廃したという嘆き。どれほど大きく痛いことか伝わって来ます。
そして、彼らの心を萎えさせたのは、エルサレムの荒廃だけでなく、すでに、帰還するまでの葛藤や大変な準備もありました。それなのに、帰還したら、この荒廃ぶりだという思いです。帰還してからも、周りの民族の妨害や嘲りもありました。再建へのためには自分たちは余りにも非力だ無力だという思いにもとらわれました。
現代の聖徒たちの人生にも、このようなことが起こる時があります。仕事がうまく行かなり、人間関係も難しくなった。家族に問題が起こり、体も具合が悪くなった。そのように次々と問題が起こり、なにもかも辛い状況になったら、人は、気持ちが切れてしまうでしょう。もう頑張れない、もう何の希望もない、もう嫌だとなるのです。
この民もそうなっていました。12節を読むと、帰還した民の気持ちが切れて、怒っているように見えます。「主よ!こんな酷い状況を見ても、放っておいて、助けないのですか。黙っておられるのですか。私をこんなに苦しめるのですか」と抗議しているようです。次々と問題に遭い、落ち込み、悩み、痛んだなら、クリスチャンだと言っても、12節のような文句や怒りを神様や周りにぶつけるようになるでしょう。
しかし、神の民は、気持ちが切れそうになりましたが、そうなったわけではありません。これも逆説的な祈りです。63:15,17。12節に言外の声を加えれば、「あなたはじっとこらえ、黙っていて、私たちをこんなに苦しめるのですか。いいえ、そうじゃないですよね。主よ。あなたは私たちをそのようにはされません」と言っているのです。たとえ私たちが次々と問題にぶつかり、気持ちが切れて、神様に文句を言い、悪態をついたとしても、「そうじゃないですよね。神様」という思いだけは留めておきたいのです。
状況が悪い時、問題が次々と起こる時、心荒れ果てて、神様に文句を言い、怒ったとしても、その悪い状況を訴え、苦しい思いをぶつけて祈りたいのです。神様は祈りに答えてくださる、私を苦しい中に放っておかれない、私の苦しみや悲しみをご存知だ。そのような信頼をもって祈りたいのです。詩篇37:5。神様は、確実に答えてくださいます。
U−怒らないでください、目を留めてください−9節
12節は、文句や怒りをぶつけているのではなく、反語的に、そうじゃない、見放すはずはなく、苦しめることをされませんということでした。そうすると、9節の赦しを乞う祈りも、逆説的に言っているのではないかということになります。
厳しい状況下にあった神の民は、「神様が激しく怒っておられるのではないか、いつまでも咎を覚えているのではないか、自分たちに目を留めておられないのではないか」と思いました。それで、「どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください」と祈っているように感じます。
しかし、神への信頼の中でこの祈りをしています。愛とあわれみに満ちた神様は、いつまでも過ちを覚えて怒ったりしてはおられない、苦しみの中にある自分たちに目を留めてくださるはずだという信頼があるからこそ、大胆に赦しの祈りをしているのです。赦してくれるか分からない、怖いなという思いで赦しを乞うのとは、まったく違います。私たちも、こういう信頼をもって赦しを求める祈りを素直にしたいのです。
そのように祈るなら、神様は、咎や間違いを、そこから出て来る痛みを消してくださいます。痛くて重い記憶は、早く神様の前に持って来て、消していだきましょう。なぜなら、イエス様の十字架の犠牲によって、罪が赦された者とされているからです。
V−私たちはみな主の御手の作品です−
このように赦していただく確信をもって、祈ることができるのも、次々と起こる問題で痛み苦しんでも、神様の助けや癒しを確信して逆説的に祈れるのも、神様への信頼があるからです。その元となった聖書の教えが8節に宣言されています。それは何ですか。「私たちは粘土で、主は陶器師です」ということです。皆さんは、陶器製作をされたことがあるでしょうか。粘土細工くらいは小さい頃されたでしょう。それを思いながら、御言葉を学ぶと実感されるでしょう。
まず、神様と私たちの関係を陶器師と粘土だと言いました。造る方と造られた者の関係です。私たちが粘土だというのは、私たちの何もできない無能さをあらわし、神様が陶器師だというのは神様の絶対的な主権をあらわしています。これは、聖書の大切な教えです。神様が私たちの主権者なのです。聖書の神様を人にとって都合の良い偶像の神にしてはなりません。そのような神概念は、いざという時何の力にもなりません。
しかし、粘土は、それ自体自らは何もできませんが、無限の可能性があります。粘土が陶器師によって様々な器に作られ、用いられるように、神様の恵みが働けば、多くの働きをする可能性があるからです。陶器師が自分の好きな器を作るように、神様も人を造られる時、ご自分の主権によって造られました。ローマ9:21。帰還した民は、落胆し自暴自棄になって心が荒廃しいたとしても、神の民の国を再建する新しい器として造り変えられ、用いられて行くのです。エレミヤ18:4。
私たちは、粘土です。何もできない粘土です。罪のために捨てられ踏みつけられてしまうただの土くれにすぎません。しかし、イエス様の救いによって、新しく造られた者となりました。Uコリント5:17。新しい命をいただきて、新しくなって生きることができるのです。何という恵みでしょうか。
そもそも人とは、土から神様によって造られた存在です。創世記2:7。まるで陶器を粘土から作るように、神によって土から造られたのです。そして、神がその鼻に息を吹き込むと人は生きるものとなったのです。その上、人は神のかたち、つまり神に似せて造られました。創世記1:27。何という素晴らしいことでしょう。神様と共に生きることができるようになったのです。
ところが、罪のために自分が神によって造られた存在であることが分からなくなります。自分が神になるので、土くれに過ぎないことを忘れてしまいます。そして、時には12節のように神様に文句を言い、怒りをぶつけるのです。その姿は、粘土が陶器師に文句を言っている姿です。イザヤ29:16。なぜこんな形なのか、なぜそんなことに用いられるのかと言うのです。なぜ私はこんな者なのか、なぜ私は難しい家に生まれたのか、なぜ私は苦労ばかりするのかと言うのです。そのような恨みやため息が出るのは、自分が造られた者であることを知らないからです。
造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼はわきまえがない」と言っても意味がありません。ですから、私たちは、私たちの造り主である神様の主権をわきまえなければなりません。そして、私たちを創造し、すべてを知って導いてくださる神の御前に正しく生きるようにするのが、何よりも必要なことです。
8節に「私たちはみな、あなたの御手のわざです」とあります。すなわち、私たちは神の作品だということです。神の作品なのに、駄作だ、失敗作だと言えるでしょうか。神様は、私たちに向かって「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われました。イザヤ43:4。私たちは、そういう存在なのです。「たいせつなきみ」という絵本があります。木の人形パンチネロは、何かへまをするたびに仲間の人形たちからだ駄目印シールをはられ、すっかり自信をなくしてしまいます。そんなパンチネロに、人形の造り主エリが語りかけます。「わたしには、おまえがとっても大切なんだよ」と。
神様は、捕囚の民を回復させて、エルサレムに帰還させ、神の民とされました。神様は、罪のために滅んでしまうたましいを再びご自分の民とするために、その犠牲として御子イエス様を十字架に渡されました。私たちは、足で踏みつけられる土くれ、粘土です。しかし、陶器師が粘土で制作中の器をこわし、気に入ったほかの器に造り変えてくださるように、神様によって用いられる尊い器として造り変えられ、それぞれにふさわしく用いられるのです。Uコリント5:17。
イザヤ64:8 しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。
64:9主よ、どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。
64:10 あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。
64:11私たちの聖なる美しい宮、私たちの先祖があなたをほめたたえたその場所は火で焼かれ、私たちが宝とした所は、すべて荒廃となりました。
64:12主よ、それでも、あなたはじっとこらえ、黙っていて、私たちをこんなに苦しめるのですか。
詩篇37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
エレミヤ18:4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。
Uコリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
イザヤ29:16 ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼はわきまえがない」と言えるだろうか。
創世記2:7 神である主は、大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった。
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