2024年9月8日「祝福を受けるには」イザヤ65:1〜16

序−人は誰でも祝福や恵みを受けたいものです。神様から祝福を受けるにはどういう姿が必要なのでしょうか。それを知るには、どのような姿が祝福を受けられないのかも学ぶ必要があります。今日の箇所には、その両方が比較されて教えられています。

T−無条件の恵みと御言葉に反する姿−1〜7
 預言者イザヤがユダの民のために祈りましたが、その祈りに神様が答えてくださったのが65章です。まず、1節。「神様を尋ねなかった者たち、探さなかった者たち」とは神の民ではない異邦人のことです。つまり、異邦人が救いを求めて神様のところに来るようになり、神様も彼らを迎えてくださるということです。異邦人にも救いが広がるという祝福です。イザヤの祈り以上に神様が答えてくださったのです。
 私たちは様々なことについて祈りますが、神様は私たちの祈り以上に答えてくださるということがあります。これは、私たちが願う以上の祝福です。そういうことがしばしば起こります。そこまで祈っていないのに、私たち意図していないことまで答えてくださるということが起こります。そういうことを覚えておきましょう。祈りの答えであると分かります。
 実際に福音が異邦人に向かって行ったことが使徒の働きに記されています。使徒13:45〜46。ユダヤ人が妬んで邪魔をするので、パウロは異邦人の方へ向かうと言いました。ユダヤ人が福音を受けないので、福音宣教を止めずに、異邦人に伝えるようになりました。イザヤの祈りは、民の救いのために、神の栄光のために祈ったからです。ですから、私たちの祈りを通して、福音が思わない方にも広がって行くということが起こります。これは、予想もしない祝福です。
 ところが、次に祝福や恵みを受けられない姿が教えられています。2〜7節。祝福を受けられないのはどうしてなのかをよく知っておかなければなりません。2節では、ユダの民が「頑ななで、自分の考えのまま良くない道を歩む者たち」と言われています。神様の方では、「手を差し伸べた」のです。彼らが祝福を受けられなかったのではなく、彼らが祝福を受けなかったからです。神の民であれば、神様の御心に従って歩まなければならないのに、自分の考えのままに生きていました。その姿が偶像崇拝です。3〜7節はみな偶像にいけにえをささげ、拝んでいる様子です。自分の思い通りに生きようとする者は、神様の祝福を受けられないと教えています。
 自分の力や知識、自分の自信で生きようとする者は、神様の祝福を受けられません。自分を高くしています。5節。反対に、神様は自分の欠けや弱さを認めて、神に拠り頼む人を祝福し、助けてくださいます。自分の考えのまま生きる頑なで肉のプライドでいっぱいな人の典型が、パリサイ人です。神殿でのパリサイ人と取税人の比較が良くそのことを示しています。ルカ18:9〜14。神の祝福を受けたのは、自分を自慢するパリサイ人ではなく、自分をあわれんでくださいと祈った取税人でした。
 それでも、神様は、終日頑なな民に手を差し伸べてくださいました。たとえ私たちが、自分の思いのままに生きていたとしても、終日御手を差し伸べてくだっておられます。肉の思うままではなく、神に頼るようにと呼びかけておられます。偶像崇拝とは、何でしょう。自分の考えのままにできるように願うことです。心の中に「自分の考えのままに生きよう」という偶像を作ってはなりません。神様の祝福は、御言葉通り歩む者に臨むということを忘れてはなりません。

U−祝福は神を求める者に−8〜12
 頑なな者にも手を差し伸べてくださった神は、神様に立ち返って来る者たちを祝福すると言われました。どんな祝福ですか。8節。「ぶどうの房の中に甘い汁がある」って何ですか。ぶどうは、生育期に雨が多いと不作となってしまいます。でも、不作のぶどうであっても全部腐ってしまうのではなく、甘いものも実るということです。そのように、神様は民に対して怒っておられましたが、怒りの中にも祝福を受ける者を残しておられたということです。頑なな民が全部腐ってしまったようでも、立ち返って祝福を受ける者も残されているということを例えたのです。
 現代社会を見ると、腐っているような部分が多く見られます。しかし、そんな中でも神の民となる人々もいるということを教えています。使徒18:10。私たちの周りが救われる祈りも無駄ではありません。そのためには、そんな社会の中で聖徒たちが神様の御前に立って祈り、御言葉に生きることが必要です。マタイ5:13〜14。
 9節の祝福は、次の世代から神様が選びご自分の民としてくださるということです。信仰の継承や家族への伝道は私たちの願いです。現実の困難もありますが、これが神様の御心であり、ご計画なのです。エペソ1:4〜5。選びの教理とは、誰が選ばれるかでなく、選ばれていると信じて祈り、福音を伝えるのです。私たち自身がすでに救いに選ばれているですから。
 10節の祝福は、環境の祝福です。シャロンの平原はイスラエルで最高の平野ですが、捕囚の時代は、荒地となっていました。イザヤ33:9。アコルの谷とは、エリコを征服した次に小さなアイにアカンの罪のせいで敗北し、そのアカンが死んだ所がアコルです。ヨシュア7:24〜26。アコルとはわざわいをもたらすという意味です。そんなシャロンもアコルの谷も、神様の祝福を受けると家畜の群れる所となるという祝福です。
 荒れ果てた所も、呪われたような地も、神様の祝福を受ければ、実り豊かな地となるというのです。人は、思うように行かないと、自分の環境について否定的になり、何も良い所がないなどと嘆きます。しかし、神様の前に生きてみるならば、その環境も祝福されたものになります。私たちの環境が問題なのではなく、神様の前にどんな姿になっているかが問題なのです。その姿勢に応じて、わざわいの所ともなり、祝福された所となるのです。「わたしを求めたわたしの民にとって」と言っています。神様を正しく求める者たちに、神様の祝福があるということです。申命記28:2。
 しかし、どうなると祝福を受けられなくなりますか。11節。まことの神を捨て、代わりに自分に良いことが起こるようにと、ガド、幸運の神やメニ、運命の神にささげ物をすることです。結果、剣に倒れる運命を選び、祝福を受けられなくなります。12節。

V−神を愛する者に祝福を−13〜15
 最後の部分は、祝福を受ける者の姿と祝福を受けられない者の姿を分かり易いように比較しています。13節の「それゆえ、神である主はこう仰せられる」は、次の言葉をよく聞いて、忘れないようにと言う強調形の表現です。ただ、「わたしのしもべたちは食べる。しかし、おまえたちは飢える。…」などという表現がどうして、祝福を受けるか受けないの比較なのでしょうか。私たちにとって食べたり飲んだりすることは大切です。その食べたり飲んだりするものが神様の恵みだと知って飲み食いすると感謝が出て来ます。神様に感謝して働き、生活します。そうすると、神様はもっとよくしてくださるというのです。それが祝福です。
 神様がくださった恵みという事実を知らないと、どうなるのでしょう。「飢える」、「渇く」というのは、食べたり飲んだりできるけれども満足しない、喜びがないということです。有名な古代の神学者アウグスティヌスは、回心以前放蕩三昧に明け暮れていましたが、思い通り生きてみたけれども、満足はしなかったと告白論の中で言っています。人は、自分中心の人生を生きよとするから神様に対する感謝がなく、いつも喜びも満足もないので、その人生は恥をかくことになるのです。
 14節の比較は分かり易いです。今私たちの心はどちらに近いでしょうか。点検してみましょう。神様に感謝して、心の底から喜び歌っているでしょうか。それならば、「神のしもべたち」となります。神様は、感謝を喜び、賛美するように、つまり外に向かって表すように求めておられます。ところが、自分の思い通りに生きようとする者は、満足や感謝がなく、いつも痛み、嘆きます。
 15節の比較は、呼び名の違いです。ユダヤ人は「選びの民」という選民思想が強くて、神様の御旨から離れてしまいましたが、神様は「ご自分のしもべたちをほかの名で呼ぶ」と言われました。救い主イエス様を信じた者は、「クリスチャン」とか「聖徒」という新しい名を与えられました。イエス様の十字架の犠牲が自分の罪のためだと信じて救われた者は、「ああ、クリスチャンになったのですね」と言われるのです。使徒11:26。
 ですから、「この地で祝福される者は、まことの神によって祝福され」ます。16節。神のしもべは、まことの神に祝福を求めます。ただ信仰に生きてこそ、神の祝福を受けることができます。神のしもべは、誓う時も神の名によって誓います。自分が何かを成し遂げようとする時、自分が成し遂げようとするのでなく、神様が成し遂げてくださるように祈ります。その上で努力するのです。その結果、自分の努力したからでなく、神様の祝福を受けたので成し遂げられたというのが信仰の姿です。このように生きる時、「かつての苦難は忘れられる」つまり、過去のことで苦しむ必要はなくなります。「わたしの目から隠される」つまり、もう振り返る必要はありません。神様が祝福を与えて導いてくださるからです。私たちも、このような祝福を神に求めます。申命記28:2。



イザヤ 65:1 「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。
65:2 わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに。
65:3 この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こす。園の中でいけにえを献げ、れんがの上で犠牲を供え、
65:4 墓地に座り、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れ、
65:5 『そこに立っていよ。私に近寄るな。私はあなたにはあまりにも聖なるものだ』と言う。これらは、わたしの怒りの煙、終日燃え続ける火である。
65:6 見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報いる。わたしは彼らの懐に報いる。
65:7 おまえたちの咎とおまえたちの先祖の咎をともどもに。──主は言われる──彼らは山の上で犠牲を供え、丘の上でわたしをそしった。わたしは、彼らのかつての行いを量って、彼らの懐に報いる。』
65:8主はこう仰せられる。「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば、『それを損なうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、そのすべては滅ぼさない。
65:9 わたしは、ヤコブから子孫を、ユダから、わたしの山々を所有する者を生まれさせる。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。
65:10 わたしを求めたわたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏すところとなる。
65:11 しかし、おまえたち、主を捨てる者たちよ、わたしの聖なる山を忘れる者、ガドのために食卓を整える者、メニのために混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ。
65:12 わたしはおまえたちを剣に渡す。それで、おまえたちはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪であることを行い、わたしの喜ばない事を選んだからだ。」
65:13 それゆえ、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、おまえたちは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、おまえたちは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、おまえたちは恥を見る。
65:14 見よ。わたしのしもべたちは心の底から喜び歌う。しかし、おまえたちは心の痛みによって叫び、霊に傷に受けて叫ぶ。
65:15 おまえたちは自分の名を、わたしの選んだ者たちにのろいとして残す。それで神である主は、おまえたちを殺す。しかし、自分のしもべたちをほかの名で呼ぶ。
65:16 この地で祝福される者は、まことの神によって祝福され、この地で誓う者は、まことの神によって誓う。かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。


申命記28:2 あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。

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