2024年10月6日「のがれた者たち」イザヤ66:15〜24

序−人は天国を望みます。信心がなくても、どんな所業で生きて来たとしても、天国へ入ることを願うものです。しかし、天国があるのなら、地獄や裁きもあります。しかし、困ったことに、人はそんなことを聞きたくないし、霊的なことには興味がないのです。それでは天国への備えはできません。御言葉に耳を傾けましょう。

T−裁きを受ける者−15〜18
 バビロンから帰還した民は、信仰が回復し、神を恐れ、御言葉に聞き従う信仰になったかと言えば、そうではありませんでした。預言者の叫びにもかかわらず、捕囚の前の姿になってしまう者もいました。17節。「自分の身を聖別し、身をきよめて」ているようなのですが、これはパリサイ人のようなうわべだけのことです。その足が向かう所は、偶像の置かれていた園でした。彼らは、「豚の肉、忌むべき物、ねずみを食らう者たち」となりました。それは、神の民として忌避していたことでした。
 彼らは、3〜4節に出てきた形だけのささげ物をしていた人たちです。心の中心に神はいません。彼らの特徴は、自分では神の民であると思って、形だけは行っているのですが、実は神様に背いて、偶像を拝む人と同じような肉の行い、罪の行いをしていたということです。そのために、神の御怒りを受ける者となりました。15〜16節。神の民が裁かれたのです。これまで何度も出て来たように、神の民は、聖なる民として召されているので、聖なる人生を歩まなければなりません。神の民とは、神様に喜ばれる歩みをし、御言葉に聞き従う生き方をして行く者なのです。
 イエス様は、まことの神様を知らずに罪の中に生きていた人々を救うだけでなく、むしろ神の御怒りの下にある神の民を救うために来られました。マタイ10:6,15:24。ご自分の民が悔い改めて、聖なる神の民として生きるようにするために、世に来られました。そして、人々に仕える姿となられて、罪に支配されている民を救うために自分の命を十字架に渡されました。Tテモテ2:6,Tペテロ3:18。罪の民が聖なる民、神の民となるために、イエス様は犠牲となられたのです。
 私たちは、この神の民の外側にいました。旧約の時代は、モデル民族としてイスラエルの民だけが神の民とされました。私たちは、異邦人であり、そこに含まれませんでした。しかし、イエス様の十字架の犠牲は、そんな私たちにも救いをもたらし、神の子どもにして、天国に属する神の民としてくださいました。ピリピ3:20。
 でも、このように神の民であった者が神の御怒りの対象になり、裁かれたことを学ぶ私たちは、自分はそうなってはならないと思わされます。天国に属する者の人生を、イエス様の十字架の犠牲を覚えて生きる人生を、神様の御前に生きる人生を歩まなければなりません。そうしなければ、容易に心に偶像を作ってしまい、御言葉に聞き従うのではなく、自分の肉の思いで生きる者になるからです。それは、神を否定した、神に背く生き方となります。
 人は罪を罪とも知らず、罪を犯しながら人生を歩んでいます。罪に翻弄されて生きていると言ってよいでしょう。ですから、世は罪の蔓延している世界です。不和、争い、妬み、憎しみ、不品行、酩酊、偶像礼拝などの罪に満ちています。ガラテヤ5:19〜21。家庭でも職場でも学校でも罪が絶えません。罪のゆえの悲惨があります。そして、罪は裁かれます。
 裁かれるのは、異邦人だけでなく、神の民も裁かれます。再臨されるイエス様は、再臨の時人々を裁くために来られます。マタイ25:31。

U−のがれた者を遣わす−18〜21
 神様は、何をもって裁かれるのでしょう。18節を見てみましょう。「わたしは、彼らのわざと思いを知っている」というのは、私たちが行っていること、考えていることをみな神様が知っておられるということです。私たちは、人がしていることは見えても、心の思いまでは見えませんが、神様はご存知なのです。形だけの信仰は通じませんでした。
 神様が私たちのなすことすべてを見ておられ、私たちの思うことすべてを知っておられるのです。詩篇94:7〜9。神の民として神の御前に生きるということは、こういうことを意識して生きることです。この意識があれば、神の民が裁かれることはなかったでしょう。日本語に「お天道様は見ておられる」という言い方がありますが、これは、聖書から出て来たような言葉です。聖書の精神が生きています。
 人は同じことをしても、色々思いは違います。たとえば、聖徒たちが主の働きをしたとしても、ある人は自分のプライドのため、ある人は認められたいために、ある人は祝福を受けるために、ある人は恵みに感謝して奉仕をするでしょう。中心がどこにあるかが重要です。裁かれた神の民の失敗がここにあります。形だけの信仰生活はありましたが、心の中心に神様がいませんでした。私たちはどうかと省みます。
 何と、神様はさばきをのがれた者たち、つまり信仰の民を用いて、救いの働きを新たに前進させます。19〜21節。神は、救いが異邦人へ向かうようにされるのです。神の驚くべき救いのご計画です。19節は、スペイン、北アフリカ、ギリシヤ、トルコという地中海世界の地名です。「神様のことを聞いたこともない、神様の栄光を見たこともない遠くの島々」なんて、日本のことのようです。聖書の神のことは日本にも届きました。
 また、遣わされた信仰の民は、国々から「同胞」つまり遠くにいた神の民を神様の下に連れて来るようになるという話も続きます。20節。確かに、遠くの地にユダやイスラエルの人々が散らばっていました。彼らの信仰を回復させて、エルサレムに連れて来るというのです。これは、主へのプレゼントです。救われた者は、遣わされた所で救いの証しに用いられることが教えられています。
 使徒たちの時代、ペンテコステの祭りの時には、地中海世界から、イスラエル人が集まって来ています。使徒2:5〜10。聖書の神様を信じる異邦人も来ています。イザヤ書に出て来る、集めて来る者、集められて来る者の多くは、異邦人です。初代教会の迫害によって聖徒たちがエルサレムから散らされ、宣教が拡大されました。使徒8:1,4。紀元70年には、ローマ帝国によってイスラエルが滅ぼされ、ユダヤ人が追放されました。そういうことによって、初代教会の宣教は大きく広がります。
 このように神様は、時には迫害や困難な事件を、福音が広がる道具とされることがあります。私たちにもそのように神様がされることも覚えておきましょう。

V−新しい天と新しい地が−22〜14
 次に、神様は新しい天と新しい地について話してくださいました。22節。新しい天と新しい地が神様の御前に常にあるように,信仰の民にもいつもあることを約束してくださいました。「主のことば」とあるように、これは確かなことだということです。新しい天と新しい地は、黙示録にも出て来ます。黙示録21:1〜4。それは、天国のようです。私たちは、神の御子イエス様の十字架の犠牲が私のためだと信じたことで罪赦され、天国への命を与えられました。地上において罪は残るものの、新しい人に変えられて行く過程にあります。天国への切符は与えられています。ピリピ3:20〜21。天の御国では、それに相応しく変えられます。何と感謝なことでしょう。
 信仰の民、救われた者たちの特徴は、礼拝する民だということです。23節。黙示録でも、天の御国での礼拝の様子がいっぱい記されています。黙示録5:12〜14,7:10〜12。ですから、私たちは救われたこを感謝して、天国の民とされていることを喜んで礼拝をささげるのです。私たちが神様の臨在を覚えて礼拝をささげて行く時、天国の前味を味わうのは、そのためです。礼拝を大切に守ります。礼拝する民は、まさに祭司、レビ人なのです。21節。
 イザヤ書最後の節で、悪しき者の裁きの場面を見せています。24節。なぜ最後にこんな、もっと良い終わり方がいいと人は言うでしょう。しかし、将来必ず罪しき者や悔い改めない者たちが遭遇する悲惨な現実を鮮やかに見せることで、彼らが速やかに罪悪から立ち返って悔い改めるためです。使徒26:18。ですから、このように、御言葉通り裁きと地獄を認めるとき、私たちは確かに神を義の方として知り、神を恐れる人生の価値がどれほど重要なのかを悟ることができるのです。
 イエス様も、地獄を表現する時このイザヤ66:24を引用されておられます。マルコ9:47〜48。悪しき所業を悔い改めて地獄から免れることを勧めておられます。マルコ9:43〜47。人生の成功とは何でしょうか。好き勝手に生きることですか。あれもこれも手にすることですか。そうできたとしても、地獄に行けば、人生は永遠の失敗です。困難が多かったとしても、天国へ行くことができれば、永遠の成功です。
 神の救いの恵みを体験した神の民は、恵みだけを歌い、感謝し、生きなければなりませんでした。それなのに、恵みで生きるという考えから離れてしまう者がいました。神様を礼拝する者は、私たちは神の恵みでしか生きることができない者ですという告白をしていることになります。天の御国に属する民として謙遜に悔い改めて、御言葉に聞き従って生きることを願います。マタイ7:21。



イザヤ 66:15 見よ。主は火を伴って進んで来られる。その戦車はつむじ風のよう。主は怒り激しいをもって、怒りを下し、火の炎をもって叱責をくだす。
66:16 実に、主は火をもってさばき、その剣で、すべての肉なる者をさばく。主に刺し殺された者は多い。
66:17 「自分の身を聖別し、身をきよめて園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉、忌むべき物、ねずみを食らう者たちは、みなともに絶ち滅ぼされる。──主のことば。」
66:18 「わたしは、彼らのわざと思いを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。
66:19 わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、そして、わたしのうわさを聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない遠い島々に。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせる。
66:20 彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな主への贈り物として、馬、車、輿、らば、らくだに乗せて、わたしの聖なる山エルサレムに連れて来る―主は言われる。それはちょうど、イスラエルの子らが穀物のささげ物をきよい器に入れて、主の宮に携えて来るのと同じである。
66:21 わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする」と主は仰せられる。
66:22 「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、──主のことば──あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。
66:23 新月の祭りごとに、安息日ごとに、すべての肉なる者がわたしの前に来て礼拝に来る。―主は言われる―
66:24 「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちの屍を見る。そのうじ虫は死なず、その火も消えず、それはすべての肉なる者の嫌悪の的となる。」


ヨハネ20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

ピリピ3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

使徒26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』

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