2024年12月8日「目を覚ましなさい」黙示録3:1〜6

序−迫害や患難があると、聖徒たちは神様に拠り頼み、御言葉を握って耐え忍び、堅く信仰に生きるようになります。一方、迫害や患難がなく、平安に繁栄して生きることができれば、信仰はどうなる可能性があるのでしょうか。今日のサルディスにある教会への手紙から学びます。

T−生きているとは名ばかりで−1,3
 小アジアの教会の四つ目は、サルディスにある教会です。1節前半。サルディスは、アッシリア帝国滅亡後の四王国の一つリディア王国の首都でした。羊毛産業と金の産出で有名でした。世界で始めて金貨を作り、流通させた国です。トモロス山の崖の上に築かれた難攻不落の都市でした。
 サルディスは、厳しい迫害はありませんが、その富と堅固さによって持っていた平和と裕福が、迫害よりも問題を引き起こしていました。現代の教会も、迫害ではなく、平和と裕福の中にあります。その意味で、サルディス教会の問題を学ぶことから、私たちが受ける可能性のある危険な問題がどのようなものであるか知ることができます。
 1節後半。サルディスの教会は、「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と言われています。「生きている教会という名を与えられていた」、周りから生きている教会と呼ばれていた、認められていたということです。彼ら自身も、自分たちの教会が「生きている教会」だと思っていました。ところが、主であるイエス様は、サルディス教会は「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる教会だ」と言われたのです。ほとんど死んだような教会だというのです。七つの教会のうちで、こんなに厳しく叱責されている教会は他にありません。
 死んだような教会だと聞くと、活気がなく、暗くて、人がほとんどいない教会というイメージでしょうか。しかし、周りから生きていると呼ばれていた教会です。むしろ、繁栄した教会、成長した教会、有名な教会ということです。制度や組織も整い、礼拝も良く洗練されているような教会です。他の教会のように、ニコライ党のような異端やバラム事件のような誘惑、悪女イゼベルのような惑わしもありませんでした。
 そんな教会が、実は死んでいるような教会だと言われているのです。主が言われておられるのですから、間違いではありません。サルディス教会は、周りの人々が外から見て認めていたのとは、その実体はまったく違っていたのです。生きているように見えたけれども、その実体は死んでいた、つまり命がない教会だったということです。サルディス教会のほとんどのものを持っていましたが、ただ一つ命がなかったのです。
 教会に本当に重要なことは、快適な礼拝堂、華麗なプログラムやレベル高い音楽がある礼拝、種々の行事や活動があるということではありません。いくらでも人材や費用をかけて、そういうことを整えることができますが、重要なことは、その教会に命があるかということです。Tヨハネ5:11。
 聖書の説明を引用してみましょう。イザヤ29:13。「唇で神様を敬いながら、その心が神様から離れている」とあります。旧約の民は、神様にほめたたえ、仕えると言いましたが、それは言葉だけで、民の心の中には本当に生まれ変わった命がありませんでした。地上におられた時イエス様が律法学者やパリサイ人について言われたことも、このことでした。マタイ23:3,25,27。律法学者やパリサイ人は、人々から賞賛や評判を受けていても、主の目には命のない人たちと見えたのです。
 綺麗な会堂や華麗な礼拝プログラムは人の手でできても、生まれ変わったたましいの中にある神様の命は、人が作り出すことはできません。

U−目を覚ましていなさい−2〜3
 死んだようになっているサルディス教会が生き返るためには、どうすればいいのでしょうか。こんなに厳しく叱責しておられたことは、サルディス教会を主が愛しておられたということです。2〜3節には、二度も「目を覚ましなさい」と言っています。それは、「目を覚まして警戒している」という意味です。おそらく、サルディスの聖徒たちは、自分たちの歴史の出来事からこの意味がよく分かったはずです。サルディスは、高い崖に守られている山にある堅固な要害都市です。これを陥落させることはほとんど不可能です。しかし、BC6世紀とBC2世紀の二度陥落したことがあります。ペルシャ帝国のキュロス王とマケドニアのアレキサンダー大王によってです。その原因は、歩哨兵が油断して眠っていたためでした。
 目を覚ましてどうするのでしょうか。「どのように受け、聞いたのかを思い起こし、それを守り、悔い改めなさい」と勧めています。3節。まず、「どのように受け、聞いたのかを思い起こす」ように勧めます。最初から死んだ教会ではありませんでした。サルディス教会の聖徒たちも、イエス様は私のために十字架にかかられたという福音を聞いて、イエス様を救い主と受け入れて信じた人たちです。
 「受け、聞いた」こととは、福音です。イエス様が人の姿を取られて世に来られ、私たちの罪の身代わりとなって十字架に死んで、三日目によみがえられたという知らせです。教会は、福音が知らされた結果もたらされた恵みです。それなのに、サルディスの教会は、いつのまにか福音よりも富や建物、歴史や名声を誇るようになったのです。救いの恵みより自分たちの力や知恵を頼むようになったのです。このような教会が回復するためには、福音にしっかり立たなければなりません。福音に立つと、自分のためではなく救い主のために生きるようになります。Uコリント5:15。
 御言葉を聞いたら「それを守る」ことが必要です。御言葉を聞くに留まらず、実行に移しなさいという勧めです。裕福で自信を持っていたサルディス教会は、御言葉通り生きていなかったのです。御言葉を聞いただけで行わないのは、自分を欺くことだと言われています。ヤコブ1:22。
 2節で「あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない」ということから、この教会の問題は「行いがなかった」ということだと分かります。つまり、御言葉に生きていない、地の塩世の光としての役割をしていなかったということです。マタイ5:13〜14。救われたことだけ強調して、救われた後どのように生きなければならないかが抜けていたのです。救われた恵みに応えることがなかったのです。
 確かにイエス様の十字架を信じて救われたことは恵みです。でも、その恵みに応えて御言葉に生きることが救われたことの証拠です。聖書は、「行いのない信仰は死んだものだ、信仰は行いとともに働いた」と教えています。ヤコブ2:17,22。もちろん、私たちが救われたのは行いによるのではなく、信仰によって与えられたプレゼントです。ローマ3:28。しかし、私たちが救われた証しは、生まれ変わった命ある生き方、行動となってあらわれるのです。
 そして、「悔い改めなさい」と勧めています。この原語は、「越えて、考える」という言葉が合わさってできており、心や気持ちの変化を意味します。心からの後悔や反省、行動を変えて神の御心に従うという決意が含まれています。悔い改めれば、希望があります。回復する機会があります。

V−白い衣を着せられる−4〜6
 1節を見てください。主イエス様が「神の七つの御霊と七つの星を持つ方」と紹介されています。「七つの星を持つ」とは、イエス様の救いによって生まれた共同体である教会を守られることを示しています。そして、教会を新しくして教会を生かすことができる方は聖霊様です。聖霊は、御言葉が宣言される時に働かれます。
 サルディス教会に与えられた御言葉に驚くべき祝福があります。4〜5節。まず、死んだようだと叱責される中にも「その衣を汚さなかった者たちかいる」と宣言されています。本気で生まれ変わった聖徒たちがいたのです。本当にイエス様に出会い、たましいの中にある神の命が働いて、信仰による生活と御言葉への従順として現れる人々がいたのです。
 「衣を汚さなかった」というのは、毛織物産業が盛んだったサルディスの聖徒たちにはよく分かる例えでした。世に流され、世の言動に生きていた聖徒たちは気付きました。世では普通であっても御言葉に合っていなければ、汚れています。イエス様を信じた者は、この世を生きる間にその聖さを守り、御言葉に生きるように召されました。
 この白い衣とは、救われた者が着る服です。その衣は子羊の血で洗って白くされたと説明されています。黙示録7:14。イエス様が私の身代わりに十字架に死なれたという恵みによって救われたこと表しています。悔い改めた者は、この白い衣を着せていただけます。彼らの名は神の命の書に記されます。すべての者が裁きを受ける時も、その書からその名は消されません。イエス様を信じて真実に御言葉に生きる者たちは、やがて御国において白い服を着て、主が天使たちの前で命の書に記された私たちの名を呼び、認めてくださる栄光を受けるという祝福です。
 この御言葉は悔い改めればいくらでも回復する可能性があるという御言葉です。 サルディス教会のように、わずかであっても、真実に御言葉に生きる者たちがいることは、とても重要な問題です。真実に御言葉に生きる聖徒がいる教会も、真に御言葉生きる教会となって行き、聖徒たちが置かれているところも、人々が救われて生きるようになります。まず、私たちが新たに目を覚ますようにと祈ります。Uコリント5:15。



黙示録3:1 また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる―。わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
3:2 目をさまし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。
3:3 だから、どのように受け、聞いたのかを思い起こし。それを守り、悔い改めなさい。目をさまさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。
3:4 しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちかいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者だからである。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
3:6 耳のある者は、御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』


イザヤ29:13 主は仰せられた。「それは、この民は口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心はわたしから遠く離れているからだ。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことである。

Uコリント5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ヤコブ2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

黙示録7:14 そこで私が「私の主よ。あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは、大きな患難を経て来た者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。

戻る