2024年12月29日「戸をたたく主」黙示録3:14〜22
序−子どもの頃住んでいた近くに、湯川という名の川がありましたが、熱かったわけではありません。でも、上流の温泉街に行くと川から湯気が立っていました。今日の箇所は、そんな温泉にまつわる話が出て来る有名な箇所です。なぜ熱くも冷たくもないと叱責されるのでしょうか。
T−生ぬるく、冷たくも熱くもない−14〜16
小アジア七つの教会の最後の教会は、ラオディキアにある教会です。ラオディキアは、小アジアの内陸とエーゲ海を結ぶ交通の要衝で、貿易と商売が栄え、金融業や製薬産業、毛織物産業でも盛んでした。ウールのチュニックの生産で有名でした。外部からの迫害もあまりなく、享楽的な都市でした。近くには、現代でも有名なヒエラポリスの温泉があります。コロサイ4:13。温泉に溶けた石灰岩が棚田のような地形の温泉です。
そんな都市にあった教会が叱責されるようになりました。15〜16節。熱くも冷たくもない、生ぬるいと叱責されています。裕福な都市でしたが、水不足という問題がありました。そこで、近くのコロサイの高山から冷たい水を引いて来て、ヒエラポリスからは熱い温泉を引いて来ました。ところが、冷たい水も熱い温泉も、ラオディキアに来る頃には、生ぬるくなってしまい、飲むのに適さなくなるのです。コーヒーも、ホットかアイスです。常温コーヒーを出す店はありません。
ですから、ラオディキアの人たちには、この例えがよく分かったのです。ラオディキア教会には、そんな生ぬるい信仰の人たちが多かったというのです。迫害もなく、異端の攻撃もなく、生活も豊かで、問題もなく、信仰生活はしていたが、世の富や享楽で満足し、必死にイエス様を求めることはなかったのです。他の教会のように様々な問題があったのなら、切実に祈って、御言葉を握って、神様に寄り頼んでいたのに、そういうことがなかったのです。私たちは、どうでしょうか。
生ぬるいというのは、信仰がないわけではありません。悪いことをして罪を犯しているわけでもありません。ちゃんと教会に通い、信仰生活をしていたのです。でも、主に拠り頼んで、主にのみ仕えるかということではないのです。イエス様は、口から吐き出すという嫌悪感をあらわしておられます。悪者たちに対してより厳しい反応です。どれほど生ぬるい信仰を嫌われたのでしょうか。
イエス様は、私たちを愛しておられます。非常に熱く熱く愛される方です。そのために、ご自分の命までもささげられた方です。十字架に苦しまれたのも、私たちを熱く愛されていたからです。ピリピ2:8。ですから、私たちも熱くイエス様を愛し、熱くイエス様に拠り頼み、熱くイエス様に仕えたいのです。それこそ、最も貴い、価値ある人生だからです。
私たちがイエス様を熱く愛し、心を込めて仕えてみると、その主の愛がとても感じるようになります。主の愛が私たちに生きて働くようになるので、私たちは変えられて、生きるようになります。
それなら、熱い方がいいとおっしゃればいいのに、なぜ、主は「冷たいか熱いかであってほしい」と言われたのでしょうか。イエス様に強く反発していたパウロは、イエス様で出会ってからは熱心に福音を伝える者になりました。冷たく反発していた人も、人格的にイエス様に出会うならば、熱くイエス様を愛し、イエス様に従うようになります。しかし、人格的にイエス様と会っていない人は、そのままでいいと思っているから、変わらないのです。こちらの方が問題だということです。
熱く私たちを愛してくださったイエス様を、私たちも熱く愛そうではありませんか。ローマ12:11。
U−自分は富んでいると言っているが−17〜19
ラオディキア教会が生ぬるくなった理由があります。17節。誤った自己満足があったからです。はじめはそうではなく、かつては純粋で熱心だったのかもしれません。状況が変わって、熱心ではなくなったのです。はじめは素晴らしい霊的恵みを受けて、熱心に信仰していたけれども、問題を感じなくなって、いつしか自己満足に陥り、生ぬるくなっていたのです。神様から受けた恵みがそのままだと勘違いしていたのです。この教会の問題の本質は、自分で何の問題もないと考えたことです。現代社会に生きる私たちにも、この危険があります。
環境も関わっています。ラオディキアは、とても裕福な都市でした。紀元60年の大地震で都市全体が被害を受けたにもかかわらず、ローマ皇帝からの復興支援金を辞退しています。自分たちで復興できるほど裕福だったからです。自分たちの都市の豊かさを自慢していました。この都市に住んでいた聖徒たちも、その影響を受けました。物質的に豊かで、裕福になった、乏しいことはないので、神様を必要する切実さがなくなったのです。そのために生ぬるい信仰になってしまったのです。適当な信仰、適度に世に妥協する信仰になっていきます。昔と比べて豊かで迫害もない現代社会では、この危険がとても大きいです。
危険だと思われますか。問題は、それを自覚できないということです。環境が整っていて、変化がないと、ちょっとしたことで信仰が曲がっていっても、気付かずに生ぬるくなっていきます。ところが、私たちの環境は、いつも問題が起こって来ます。健康問題、経済的問題、家族の問題、仕事や学校の問題など、次々と起こって来ます。むしろ、それがあるから、私たちは御言葉を握り、主に拠り頼んで生きていると言えるでしょう。
これも恵みなのでしょう。豊かになった、乏しいものは何もないことがよいことではないのです。人生は神様との関係が何よりも重要だからです。私たちの人生に問題や困難がなければ、私たちは霊的に生ぬるい状態のまま生きることになるでしょう。イエス様は、ご自分に対して心熱く向かって来る人を好まれます。ちょっと失敗や欠けがあっても、熱心にイエス様に従い、熱く交わる人を求められます。熱いこと、熱心な信仰を好まれます。ローマ12:11。熱心になって悔い改めることを求めておられます。19節。イエス様がこうして叱責されることも、彼らを愛しておられたからです。生ぬるいのではなく、熱心になることを願っておられます。
生ぬるい状態を直すために、イエス様が忠告されています。18節。「火で精錬された金を買う」とは、純金のようにイエス様を純粋に信じる者になれということです。「白い衣を買う」とは、イエス様の血によって罪赦されて聖くされ、与えられた白い衣を着て、感謝して生きなさいということです。「目が見えるように目薬を買う」とは、霊の目が開かれるようにということです。イエス様は、哀れなのは自分が霊的に見えないことを自覚していない人たちだと言われました。ヨハネ9:41。彼らの問題は、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていなかったことです。彼らが世で自慢していたもので生きるのではなく、イエス様の救いによって与えられる恵みで生きるようにということです。私たちも、そうそうしなければと思います。
V−わたしの声を聞いて戸をあけるなら−20〜22
ラオディゲア教会の根本的な問題は、熱心に彼らを愛されたイエス様と人格的な交わりを失ったまま、自己満足な形ばかりの信仰生活をしていたということです。主よ主よと言いながら、イエス様を主としていたわけではありません。イエス様と関係なく、生きていたのです。イエス様は、彼らのそんな状態を、彼らの心からイエス様が外に締め出されていると表現されました。20節。
締め出されたとしても、それでも熱心に彼らを愛されたイエス様は、彼らの心の「戸の外に立ってたたいて」おられるというのです。どれほど、聖徒たちを愛しておられるのでしょうか。イエス様の熱心さを感じるとともに、切なさも感じます。そのままにしておくのでしょうか。私たち自身はどうですか。
これは、私たちにもくださった御言葉です。「戸を開けて入れてくれるなら、入って彼とともに食事をする」というのですが、「一緒に食事をする」ということは、最も親密な交わりということです。一緒に食事をするというのは、家族になるということです。ですから、教会での食事の交わりは、イエス様が一緒にいてくださる愛餐なのです。使徒2:46。
20節の情景を描いたウィリアム・ハントの「世の光」という絵があります。彼の絵を見た人々が賞賛する中で、一人の友人が疑わしそうに「描き忘れている所がありますが」と言います。すると、ハントは「ドアの取ってを描き忘れたわけじゃないよ。この絵の扉の取っては内側にあります。内側から開けなければ開かない扉なのです。つまり、自分が開けなければ開かない私たちの心の扉を描いたのです」と答えました。
イエス様が叩いておられる戸を開けるということは、イエス様を人生の主として心に迎え入れることです。親しく交わることです。エス様が私たち自身の心の戸を叩いておられます。しかし、その戸を開けられるのは、自分自身だけです。自分が決断して戸を開けなければなりません。
イエス様は、「確かで真実な方」です。14節。今日も主イエス様が、私たちの霊的状態を知らせ、私たちと人格的な交わりをするために心の戸を叩いておられます。心の戸を開き、イエスを受け入れ、熱心に主に拠り頼み、勝利者の祝福を受けることを願います。20節。
黙示録3:14 また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる―。
3:15 わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。』」
ピリピ2:8 自分を卑しくして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
ローマ12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
ヨハネ9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、「私たちは目が見える」と言っているのです。あなたがたの罪は残ります。」
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