イースター礼拝2025年4月20日「転がされた石」マルコ16:1〜8

序−イエス様が十字架に死なれて、イエス様の望みをかけていた弟子たちは失望落胆し、逃げ出して、隠れました。しかし、イースターの朝イエス様の墓に行って、復活されたイエス様に出会った人がいました。マグダラのマリアは最後までイエス様に付き従い、見守りました。

T−イエス様に感謝して、愛した心で−1〜2
 安息日の次の日朝早く、女性たちがイエスの墓に来ました。1〜2節。3人の中でマグダラ・マリアは、真っ先に復活のイエス様に会う人であり、弟子たちにイエス様の復活を知らせる人です。9〜10節。マグダラのマリアと呼ばれるのは、ガリラヤ湖の西側にあるマグダラ村に住んでいた人だからです。同じ名前の人がいるので、地名や家族の名を付けて呼びました。もう一人のマリアは、ヤコブの母マリアと呼ばれていました。
 マグダラのマリアは、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人であると紹介されています。9節。多くの悪霊に取りつかれ、病気になっていた悲惨な人生でした。ルカ8:2。何かのことで悩み苦しみ、心の病に陥り、健康を損ねて、生活も破綻し、人々から疎外された、そんな人だったようです。私たちは、かつてどんな人生を歩んでいたのでしょうか。苦しみや痛み、悩みや空しさの中にあったのでしょうか。
 かつて悲惨な人生を歩んでいたマリアは、イエス様に出会い、癒され、救われました。ですから、マリアは、自分を救ってくれたイエス様に感謝し、イエス様に従い、弟子たちに仕えるようになりました。ルカ8:1〜3。弟子たちがみな逃げて、隠れた時も、マリアは最後までイエス様を見守りました。十字架の場面も、墓に遺体が納められた所にもいました。マルコ15:40,47。
 イースターの朝、マリアたちがイエス様の墓に来た目的は、イエス様の遺体に香油を塗るためでした。1節。十字架刑の後、安息日が迫っていたために墓に納められただけで、埋葬のための香油が塗られていなかったからです。ですから、安息日の終わった週の初めの日、つまり日曜日の早朝、女性たちはイエス様の墓にやって来ました。イエス様への感謝の思い、愛する思いがあったからです。私たちは、イエス様に感謝していますか。イエス様を愛していますか。
 でも、マグダラのマリアたちは、主の復活を期待して墓に行ったわけではありません。イエス様に感謝し、イエス様を愛する思いでイエス様の葬儀をしたかったからです。このイエス様への熱い思いが、大きな出来事へと導くのでした。

U−墓を塞ぐ石を転がせるのか心配していた−3〜4
 マグダラのマリアたちは、イエス様の遺体に香油を塗るために墓に向かうのですが、一つの心配がありました。道々「だれが墓の入口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。3節。その墓は、岩を掘って造った墓に大きな石を転がして入口が塞がれていました。どうしたら、墓を塞いでいる石を転がせるかということを心配していました。女性たちは、金曜日に十字架で死なれたイエス様が墓に埋葬されるところを見ていたからです。マルコ15:46〜47。
 しかし、このような心配は、心配する必要のない心配です。大きな石を動かすのは、自分たちではどうしようもできないことだからです。人は、こういう不必要な、無駄な心配をしています。ルカ12:22〜26。どうにもならないことで悩んでいます。私たちは、どうでしょうか。
 それでも、女性たちは諦めていません。イエス様の遺体に香油を塗るために墓に来ました。自分たちでは到底無理、大きな石を転がせないと思って来なかったなら、復活のイエス様に会うことはできませんでした。マグダラのマリアたちがこのような行動ができたのは、ただイエス様に救っていただいた恵みに感謝し、愛する心でいっぱいだったからです。せめてイエス様の遺体に香油を塗ってさしあげたいという切なる心が女性たちを動かしました。こういう信仰が光りますね。
 人は、あれこれと心配する存在です。現在のことだけでなく、過ぎ去った過去のことを心配し、どうなるか分からない未来のことまで心配しています。人のする心配は、大部分はどうすることもできないこと、心配しても仕方のないことを心配しています。
 女性たちは、イエス様に感謝し、愛していましたが、イエス様のことを知りませんでした。イエス様は、何度も「人の子は彼らに殺されますが、三日目によみがえります」と言っておられました。マタイ16:21,17:23,20:19。御言葉が抜けていたのです。御言葉のない愛や熱心は、不安定です。御言葉の確信こそ、信仰です。
 墓に着いてみると、大きな石は転がされていたました。4節。墓は開いていたのです。マタイ28:2。女性たちの心配は、杞憂にすぎませんでした。墓の入口の大きな石は、イエス様の遺体が盗まれるのを防ぐための石でした。マタイ27:64〜65。しかし、墓の入口を塞いでいた大きな石は、女性たちの心配の象徴でした。女性たちは、その大きな石は転がすことができないという固定観念に捕らわれていました。人には自分の人生を塞いでいる石のようなものがあります。家族の問題、職場の困難、健康や経済の問題など、心配し悩むことがあります。問題や困難という大きな石によって人生が塞がれています。どうにもならないという固定観念に捕らわれています。
 しかし、固定観念は破られました。大きな石は転がされていたのです。私たちの人生を塞いでいる大きな石が転がされる時が来ます。救い主イエス様に出会い、救われると思いが変わり、人生が変わります。Uコリント5:17。諦めていた人生、塞がれていた人生が開かれます。

V−あの方はよみがえられました−5〜8
 最も大きな固定観念は、死についてです。死はどうしようもない、人は死んで終わり、何の望みもない、人生は空しいという考えです。大きな石のように人生を塞いでいる固定観念です。その石が転がされ、イエス様が復活されました。5〜6節。天使が、女性たちに、イエス様の復活、よみがえられたことを知らせました。空の墓が、イエス様の復活の証拠です。イエス様は、十字架にかかられる前に、すでにはっきりとご自分のよみがえりと死の扉が開かれることを言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25。
 女性たちが墓の入口を塞ぐ大きな石のことを心配しながらも墓に来たのは、神様が何とかしてくださるという思いがあったのでしょう。誰か知らない人が転がしてくれるだろうなどと適当なことを言ったのではなく、神様がこの問題を解決してくださると願って来たのです。心配しながらも、行動しました。これが良かったのです。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1。
 イエス様の復活は信じがたいことです。女性たちは、驚いて気が動転し、恐ろしくて逃げ出しました。8節。でも、創世記にあるように、神様が天地を創造されたことを信じるなら、イエス様の復活も信じられるのです。NASAの科学者や宇宙飛行士が創造者なる神を信じているのも矛盾しません。彼らが宇宙から地球を見た時、天地を創造された神様を信じました。
 大事なことは、イエス様の復活が意味していることは何かということです。神の御子イエス様の死は、一人イエス様の死だけではありません。その死は、すべての人の罪と滅びの身代わりの死でした。Tペテロ3:18。罪のない神の御子が十字架で死なれることによって、信じる人々の罪が赦されて、罪の結果である死から解放されるというのが、聖書の教える救いの福音です。Uコリント5:21。
 そして、イエス様の復活、死からのよみがえりも、イエス様お一人だけのことではありません。死に打ち勝ったイエス様の復活は、人々が死に打ち勝つことができるという事件であり、人々の人生を変える出来事でした。イエス様に救われる命がイエス様のように復活するということを明らかにした出来事でした。私たちも、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」というメッセージに含まれているのです。ヨハネ11:25。
 ですから、私たちは天国を確信することができます。人は死んで終わりという虚無感から解放され、希望を持って人生を生きることができます。Tコリント15:32,57〜58。私たちの人生にこの復活の信仰が入り込んでいるように生きることが必要です。イエス様を救い主と信じた者は、死に勝利した者です。私たちも、イエス様の復活の信仰によって死に勝利した者として人生を生きて行くのです。そうすれば、人生の様々な問題を乗り越えて生きることができます。
 天使が女性たちに、「弟子たちに、ガリラヤ湖で復活されたイエス様に会える」ことを伝えるように言いました。7節。ガリラヤは、私たちにとって教会の礼拝でしょう。イエス様が「週の初めの日」日曜日によみがえられたのを記念して、キリスト教会は、日曜日に礼拝をささげています。礼拝において復活のイエス様にお会いできることを願います。マグダラのマリアは、復活されたイエス様と会ったから、弟子たちにイエス様の復活を伝えることができました。9〜10節。私たちも、礼拝で復活のイエス様に会ってこそ新しい命、復活の命に生きていけるのです。Tコリント15:57〜58。



マルコ16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。
16:5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。
16:6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた所です。
16:7 さあ行って、お弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
16:8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
6:9 〔さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリヤにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。

ヨハネ11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

マルコ15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入口には石を転がしておいた。
15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。

Uコリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

Uコリント5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

Tペテロ3:18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりとなられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。

Tコリント15:32 もし、私が人間の考えから、エペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし、死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。
15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあってむだでないことを知っているのですから。

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