2025年7月6日「はじめに神が天地を創造された」創世記1:1〜5
序−高校生の時、「自分の存在って何なのだろう。人生とは、社会とは何なのか。自然とは、宇宙とはどうなっているのか。その始まりはどうなのか」と考え、眠られぬ夜を過ごしたことがありました。誰でも、そういうことを考える時があるでしょう。それは、自分を知る道だからです。私のその疑問に答えてくれたのが、聖書でした。
T−はじめに神が創造された−1節
聖書を開くと最初に出て来るのが、創世記の「はじめに神が天と地を創造された」の一節です。1節。私たちの魂に響く宣言です。原語の響きも味わってみましょう。「ベレシート、バラ、エロヒーム、エト、ハシャマイーム、ウェエト、ハアレツ」の七文字です。「ベレシート」とは、始まりとか起源という意味です。そこから、創世記と呼ばれるようになりました。バラとは、無から有を作り出す意味があり、神にのみ使われる動詞です。普通に作る、すでにある物質から別の物質を作る場合はアサとという動詞を用います。最初に知らされる神のイメージは創造主です。
天地を造られたということは、天地の中のすべてを造られたという意味です。神が創造の主体であり、歴史の始まりです。私たちは学校で進化論が真理であるかのように習いますが、実際は科学的仮説であり、思想です。科学的な法則でもありません。進化論と創造とは、世界観の違いと言えるでしょう。聖書は、創造の過程や方法を科学的に説明をしたものではなく、天地万物はどうして生じたのか、その存在と目的は何かを教えています。
世界と私たちは、決して偶然の所産ではありません。世の人々は、科学万能、欲の追求、物質主義などに囲まれ、人生の本当の意味が何かを真剣に尋ねることなく生きています。しかし、その本来の意味と秩序を悟らせてくださる聖書、創造主なる神が人と天地万物を創造されたという宣言は、本当にうれしい知らせです。しっかり生きていくことができます。
私たちが神による創造を信じることは、自分の存在とその目的が神との関係の中で見つけることができるということです。そこから、私たちは、今神は私にどんなことを計画されているのか、これから私にどのようなことを創造されるのだろうかと考えることができます。神の御心が私たちを存在させたと言えます。ですから、私たちの人生は大切なのです。大事に生きなければならないのです。エペソ2:10, イザヤ43:4。
神による創造を受け入れる時、聖書に現れた奇跡や出来事を信じることができます。1節の宣言を信じることは、創造主なる神の存在を認め、世界とその歴史とが神の目的の中で進むことを信じることになります。創造を否定する人は、世のすべてのことが偶発的なこととみなし、世の歴史は目的なしに流れていると信じていることになります。ですから、創世記は、私たちと関係のない話ではなく、私たちすべての被造物の物語であると信じて読むべきものなのです。
この創世記1:1は、神の創造についての宣言であり、私たちが自分と世界の存在と目的を知って、この世でしっかり生きていく意味と意義を与えてくれるものです。心に刻みたい一節です。幕末アメリカに密航した新島譲は、この創世記1:1に出会い心打たれ、信じる決心をしたそうです。
U−茫漠として何もなく、闇があり−2節
では、神によって創造される前はどうなっていたのという疑問が出てくるでしょう。2節。茫漠という難しい訳となっていますが、混沌という意味です。でも、それだとカオス、混乱、無秩序というイメージになりますが、そうではなく、茫漠だったのです。この訳がぴったりです。「茫漠として何もなく」の原語は、「トフ、ボフ」で、似た意味と韻律の言葉を繰り返すことで、その意味を強調しています。「茫漠にして空虚なり」という感じでしょうか。どんな形もなく、何も揃っていないという意味です。
イザヤ45:18では、天地を創造された神は、茫漠としたものとして創造せず、人の住む所として形造ったと言われています。ですから、創造以前は、人の住むことのできない所ということになります。茫漠として何もなくという表現は、人が住むために必要なものが何も揃っていない状態ということです。エレミヤ4:23では、預言者は、バビロンによって侵略されて荒廃したエルサレムとユダの地を「茫漠として何もなく」と描写して泣き叫びました。光がなくて闇で、人が生きていけなかったと言っています。ですから、神の創造は、人が住めるようにするという目的があったのです。
2節後半では「闇が大水の面の上にあり」と言っています。「大水」と訳された言葉は、深み、深淵という意味です。深い暗やみが覆っていた。創造される前は、混沌と空虚、暗闇と深淵に覆われていたのです。混沌、空虚、闇、深みとう言葉からどんなイメージが生じて来ますか。これらの言葉はみな、人生の困難な状況をあらわすために用いられる言葉ですね。混乱して人生の意味を失ったまま、空しい抜け殻のような状態、まったく希望の光が見えない暗い現実、否定や悲観という深みに落ち込んでいる、そんなイメージが描かれるでしょう。
ですから、神の創造が始まる時の状況は、私たちの生活を取り巻く状況と無関係ではないと思います。私たちも、人生においてそのような状況に直面したり、そのような危うい状況に追い込まれることがあるかもしれません。しかし、2節後半には、「神の霊が水の面を動いていた」とあります。なんと神様の霊が、混沌、空虚、闇、深淵の上にとどまっておられたのです。「動いていた」ラハールという言葉は、鳥が巣を見守りしながら飛んでいる様子や母鳥が卵を抱くことも意味します。たとえ、私たちが厳しい辛い状況にあるとしても、御霊がその上を動いておられると思えば、希望と励ましが与えられます。
V−−3〜5節
そのような混沌、空虚、闇、深淵は、「光、あれ」という神の言葉で解決されました。3節。ここで注目すべきことは、「光り、あれ」と神が言われると「光があった」ということです。御言葉の権威と威力です。この後29節まで10回も「神は仰せられた」と繰り返されます。神が御言葉で世界を造られることが強調されています。
光を造られた神は、光と闇を分けられ、光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられました。4〜5節。人は、光は良いもの考え、闇は悪いものと考えるようです。光は、喜びと希望と活気に満ちた時をイメージし、闇は悲しみと絶望と辛い時を連想させるからです。しかし、闇さえ創造の秩序の中にあるということはどういうことなのでしょう。たとえ、闇の中でも神の愛は続いていると言うことができます。辛い悲しい苦しい中を通るとしても、その時間さえ神の愛と恵みの中にあることなのです。
また、人生は昼と夜が交差するリズムの中で進んでいきます。昼は、神が私たちに委託された仕事や学びをしたり、世に仕え、夜は、家族と過ごしたり、休みや思索をして、神の御心と自分の心を調整する時ともなります。昼と夜を分けた神を思って過ごし方を考えたいのです。
5節の「夕があり、朝があった」という表現の順序が気になったでしょうか。「夕があり、朝があった」という順序に何の意味があるのでしょう。一日の始まりは夕なのです。夜自分の存在を洞察し、一日を黙想することで、朝を迎える備えとなるのです。一日は、何の意味もなく与えられているわけではありません。その一日は神が与えてくださるプレゼントです。一日は大切なのです。神の御心を思って一日を過ごす時、その一日は千日にまさります。詩篇84:10。
神が造られた光の評価が記されています。4節。「神は光を良し見られた」というのです。この表現も、1章の創造の記録に繰り返し登場します。神が創造された光を満足して喜ばれたということです。神が良しと見られた創造物を私たちも良しと見て、受け入れるのです。そこから、変化も始まります。
人は、人生の意義を見失い、迷っています。人間の存在に意味と意義を与える創造主なる神に背を向けているからです。創造主なる神を覚えることが必要です。エペソ1:4,7,13では、神は私たちを御前で聖なる、傷のない者にするために、創造の前にイエス様にあって私たちを選び、イエス様の血で私たちを贖い、罪を赦し、聖霊が救いの福音を聞いて信じていることを確認させてくださいました。神の働きは、創造の時や私たちを救う時と同じです。創造の原理と私たちが救われた原理は同じなのです。
聖書は、神が天地を創造され、天地の創造主であるとの宣言から始まりました。この神が私たちを選び、救い、神の子とされたということがどれほど恵みであることか、私たちは感動して感謝したいのです。ですから、その恵みを覚えるなら、創造主である神の御心に叶う歩みができますようにと願います。ヘブル13:21。
イエス様は、創造の御業を成就された方です。ヨハネ1:1〜4。神が言葉で創造されましたが、イエス様が「ことば」と言われています。イエス様は「人の光であった」と証しされています。イエス様を信じる者は、新しい命をいただき、罪によって堕落し、混沌とした空しい生活から秩序で充実した生活に回復されるのです。このイエス様の救いが、創造の時から関係していたのだなと今日の箇所を学んで分かりました。「あなたがたは目を高く上げて。誰がこれらを創造したかを見よ」イザヤ40:26。
創世記1:1 はじめに神が天と地を創造された。
1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
1:4 神は光を良し見られた。神は光と闇を分けられた。
1:5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
イザヤ45:18 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方、まことに、この主が言われれる。「わたしが主、ほかにはいない。
エレミヤ4:23 私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。
ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
エペソ1:4 すなわち神は、私たちを世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前で聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
1:7 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きに罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
イザヤ40:26 あなたがたは目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方はその万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つも漏れるものはない。
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