2025年8月24日「助け手を造ろう」創世記2:18〜25

序−現代の世界は、欲と罪の蔓延のために、家庭が崩壊し、男女の関係も崩れて来て、孤独に生きる人が増え、社会は混沌としています。人の欲がどうしたいか、世界がどう変化しているかではなく、聖書はどう教えているかに聞かなければなりません。

T−人がひとりでいるのは良くない−18〜20
 これまで「良かった」と言われていたのに、18節では、「人がひとりでいるのは良くない」と言っています。神の似姿として創造された人とは、関係性の中で生きていく存在だったからです。人が、喜びを分かち合い、悩みを分かち合うことができないことは、大変辛いことです。喜んで幸いに生きている人は、誰かとの親しい関係を築いているものです。たとえ難しい状況にあったとしても、誰かと心や思いを分かち合える人は幸いです。
 人は神が造られた生き物に名前を付ける仕事をしていました。19〜20節前半。名前を付けるというのは、支配、管理する行為です。学者が見つけた新種の生物に名前を付ける場合、生物の特徴を研究し、それに相応しい名前を付けます。人もそのようにしたのでしょう。神は、このことを通して人が気付くように期待されたことがあります。神が連れて来られた生き物を見ているうちに、それぞれペアがいることに気付きました。
 神は、こうして人に生き物の名前を付けさせながら、人が自分にはペアがいないことに気付くようにされました。自分と共に存在し、自分を助けてくれる人の必要を自覚させてくださったのです。そして、人は気付いたけれども、自分に「ふさわしい助け手が見つからなかった」のです。20節。そして、神は、「彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と言われたのです。18節。「助け手」と訳から、女性を劣った補助や助手のように考えるかもしれませんが、そうではありません。詩篇では、同じ単語を「主は私の助け」に使っています。詩篇30:10,33:20。
 「助け手」とは、弱い、付属的な存在というのではなく、決定的な存在と言うことができます。女性は、男性にとって決定的な存在なのです。助け手とは、自分を助けてくれる大切な存在だということです。神に創造された人が、関係性の中で経験する喜びや幸いは、一人では経験することができないからです。
 「人が一人でいるのは良くない」というのは、人が誰かに関係なく一人存在することは、神の目的ではなかったという意味です。人が誰かと人格的な関係形成なしに存在するのは神の目的ではないということです。人は、関係性の中で生きる存在なのです。一人暮らしが良くないということはないし、独身は良くないということでもありません。独身でも、一人暮らしでも、人との関係性、神との関係性を持って生きることが大切だというのです。たとえ家族などがいても、関係性がなければ、それは一人なのです。
 家族や友人など、周りにいて自分気にかけて、助けてくれる存在を感謝します。そういう人を私たちの周りに置いてくださった神に感謝します。私たちは幸いです。私たちは、教会という信仰の家族の中に置かれ、同じキリストのからだの器官同士という関係の中で生かされているからです。Tコリント12:25〜27。だからこそ、教会とその交わりを大切にしたいです。

U−私の骨からの骨、私の肉からの肉−21〜23
 その人の助け手である女の造られ方が記されています。21〜22節。違う造られ方をされたということは、男と女は違うということです。結婚式の時、健やかな時も病める時も愛しますかと問いに「はい」と誓ったのに、やがて葛藤し、争うようになります。その理由は、互いの感じ方や考え方、生活様式が違うからです。本当に日常生活のちょっとした違いに気付き、葛藤するようになります。
 人は、他人の違う点だけ見て、他人を受け入れず、否定し、批判します。そうして、様々な人間関係において問題が発生します。人はしばしば他人のことが理解できないと言いますが、本当に理解しようとしたのでしょうか。ほとんど理解しようとせずに、他人の言動について自分が感じることだけで判断し、否定し、拒みます。それが大きな葛藤をもたらし、多くのエネルギーを費やし、罪を犯すようになります。そのエネルギーを理解するために使えばいいのにと思います。
 ところが、自分とは違う相手に、自分と同じ考え方や様式があることを期待するのです。さらに、同じ考え方や様式を要求するようになります。違う者同士、お互いにそうすれば、当然その期待と要求は成り立たなくなります。その結果、互いに欲求不満を抱えることになります。こういうことは、様々な人間関係の中でも無意識にすることになります。そうすれば、互いに不満や怒りを生じることになります。
 ですから、相手に要求したり願ったりする願い手ではなく、助け手になるようにと教えていたわけです。18節。夫婦は、お互いを助けるために出会ったと考え、互いに助け合って生活するようになると、その家庭は幸せになります。様々な人間関係において、互いの違いを認めて、願いや要求をすることよりも、互いに足りないと思うことを助け合い、補い合えればいいのではないかというのが、聖書の教えです。
 ですから、私たちがまず気付くべきことは、男と女は違う、他人と自分は違うということです。神は、女を人とどのように違って造られましたか。21〜22節。とても不思議な造られ方です。どうして「あばら骨」から造られたのでしょうか。
 マシュー・ヘンリーという2百数年前の注解者は、「女が男の脇腹から取ったあばら骨で造られたのは、男を支配するように頭で造られたのでもなく、男に踏みつけられるように足で造られたのでもなく、男と同等で男の胸の中で保護され、心臓の近くで愛されるように脇腹のあばら骨から造られた」と説明しています。なるほどねと思います。
 そうして造られた女は、人の前に連れて来られました。22節。結婚式で、花嫁の父が花嫁を花婿のところに連れて来るのは、ここを元にした習慣だそうです。その女を見た人は、「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから」と言いました。23節。これもまた、不思議な表現です。
 夫婦の関係を表した重要な表現です。自分を助けてくれる、自分のための役割と働きをしてくれる存在というのではなく、この女の存在そのものが大切な存在だという意味です。たとえ助けを受けられないとしても、神が自分に与えてくれた大切な贈り物ということです。骨の中の骨、その骨のことを考えると、ほかのことを忘れてしまう、それだけで大切な存在だということです。自分を忘れてしまうほど大切だというわけです。
 23節でそれだけ大事な存在だと言っているのは、相手をほめていることにもなります。足りないと思う所を要求したり、自分と違う所を責めたりするよりも、自分と違う所や自分にない所を褒め、感謝することが必要です。大事なことです。男は女を見た時、自分との違いを言うのではなく、自分にとって大切な存在だと褒めて、感謝しているのです。夫婦は、互いを褒め、感謝することが必要です。様々な人間関係において、相手を褒め、相手に感謝することがとても大切なことです。

V−父と母を離れ、ふたりは一体となる−24〜25
 神は、夫婦の関係をこの世で最も近い、大切な関係だと言われました。夫婦について、「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と教えています。24節。しばしば誤解される所です。両親と訣別するということではありません。最も優先すべき忠誠を尽くすべき対象が変わらなければならないということです。両親は、二人の間に余計な介入をしてはならないし、二人も両親を尊敬しつつも、両親から精神的に独立しなけれならないということです。両親から離れる一方、夫婦は固く結ばれます。24節。「結ばれる」とは、糊で落ちないように貼り付けたという意味です。夫婦関係は、決して離せないそのような関係なのです。
 興味深いことに、使徒パウロは、この24節を引用しながら、「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っている」と言っています。エペソ5:31〜32。夫と妻の関係を、イエス様と教会の関係に例えているのです。人を死のような深い眠りにつくようにして、脇腹からあばら骨を取って女を造られたように、イエス様が十字架の死に渡され、脇腹に槍を刺さされると水と血が出ました。ヨハネ19:34。逆に、イエス様と教会の関係から、夫婦の関係について教えています。エペソ5:23〜25。教会がイエス様に従うように妻は夫に従い、イエス様が教会のために十字架にかかられたように、夫は妻のために命をかけます。骨からの骨と言っていたように、夫は妻を自分の体のように愛します。23節,エペソ5:28。
 私たちが罪によって壊れた関係にいたとき、イエス様は私たちの人生の真ん中に来られました。私が犯した罪の罰に代わって、私の代わりに十字架にかかって呪いを受けられたのです。私をそのように愛してくださったから、私たちは癒され、罪で壊れていた関係も回復されるのです。イエス様は神の本性であられたが、人となって世に来られました。人としても弱さと苦しみと誘惑を受けて、私たちが罪の赦しを受け、天国に入るようにされました。 天国は理解することから出発します。幸福も理解することから出発します。幸せな家庭は、お互いを理解しようとする家庭です。



創世記2:18 神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である主は、その土地の土であらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がその名を呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である主は、深い眠りをその人に下された。それで、人は眠った。主は人のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
2:25 そのとき、人とその妻はふたりとも、裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。


エペソ5:31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。

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