2025年9月21日「主が受けてくださる礼拝」創世記4:1〜15
序−創世記2章で仕事の始まりについて学び、3章で罪の始まりとその特徴について学びました。そして、4章では礼拝の始まりと言える出来事とそれにまつわる事件が記されています。今日の箇所から、礼拝とは何か、私たちはどういう礼拝をささげるのかについて学ぶことができます。
T−礼拝をささげたが−1〜5
エデンの園を追放されたアダムとエバのその後が気になりますね。1〜2節。やがて二人の間に二人の息子が生まれました。その名はカインとアベル。二人は成長して、カインは農業、アベルは牧畜の仕事をするようになりました。しばらく時が過ぎて、二人とも神へのささげ物をするようになりました。3〜4節前半。旧約時代は、神へささげ物をすることが、礼拝の中心でした。新約時代には、いけにえはイエス様の十字架により終了したので、賛美と祈りと御言葉の礼拝となりました。ヘブル10:10。
ですから、二人が主にささげ物を持って来たということは、神に礼拝をささげたということです。礼拝の始まりが記されていることになります。二人はそれぞれささげ物を持って礼拝したのです。ところが、そこで問題が起こりました。神はアベルのささげ物に目を留められたのに、そのささげ物には目を留められなかったのです。4節後半〜5節前半。
ここで私たちが気付かされることは、礼拝はささげることだけで終わることではないということです。神がその礼拝を受けてくださることが重要なのです。ここに神に受けられる礼拝と受けられない礼拝があるということが示されています。そういうことなのかと気付かされます。
では、どうしてささげ物が受け入れられる、受け入れられないことが起こったのでしょうか。よく言われるのは、いえにえとしての動物の血が受け入れられるという説です。確かに旧約時代よく出て来るのは動物のいけにえです。また、アベルの「羊の初子の中から、肥えたもの」ように、つまり最上のものではないからという説もあります。出13:12。でも、これらは後に作られた規定です。ここでは触れられていません。
4〜5節を注意して見ると、神が目を留めたり、留めなかったりされたのは、ささげ物だけでなく、「アベルとそのささげ物、カインとそのささげ物」と人とささげ物を一緒にしています。重要なのは、ささげ物より、ささげる人です。つまり、二人の違い、その心の状態が違っていたということになります。明らかに信仰の問題だったということです。ヘブル11:4。ということは、礼拝をささげる私たちの心が大事だということになります。
U−所有欲、自己中心、神への反抗−5〜9
では、なぜカインは、カインの心は神に受け入れられなかったのでしょうか。そのヒントは名前にあります。エバはカインが生まれた時、「私は、主によって一人の男子を得た」と言いました。1節。つまり、男の子を「得た、獲得した、所有した」と言っています。エバは、カインを約束の子孫が生まれたと信じたのでしょう。カインという名も、「所有する、獲得する」という意味です。そもそもアダムとエバの善悪の木の実を獲得したい、所有したい、神のようになりたい、神の地位を獲得したい、所有したという思いが罪を犯すことになりました。
初めての息子を産んだエバは、その感激に酔いしれた一方、次男のアベルについては、虚無、無駄という意味の名を付けるくらい、余計物扱いでした。間違った執着と偏愛で育ったカインは、極めて自己中心的、親の間違った所有意識を受け継いだ人となったのです。ですから、ささげ物をさげながらも、自分の所有の一部をささげたことであって、神が作物を実らせてくださった、本来は神の所有物だという信仰はなかったのです。最初の収穫物ということもなかったのです。実りを与えてくださった神への感謝の思いもなく、形式的にささげたのです。
カインのそういう思いは、神が目を留めてくれなかった後に見せた態度に現れています。5節。評価してくれなかった神に対して「カインは激しく怒り、顔を伏せた」というのです。認めてもらえなかったら、自分を振り返り、悔い改め、正すべきでした。しかし、自分の形式的礼拝、不信仰、不誠実を省みることがありませんでした。自分は正しい、問題は受け入れてくれなかった神にあると激しく怒ったのです。
カインは自分の過ちを悟り、神との関係を正さなければならなかったのに、その怒りを神がそのささげ物を目に留められた弟アベルにぶつけました。承認されない不安や怒り、承認されて者への嫉妬や憎しみを心理学用語でカイン・コンプレックスと言います。聖書のこの箇所がその典型として用語となっています。これは、親や教師や上司の評価をめぐって生じるコンプレックスです。自分が評価されないのは他人が評価されるから、自分が失敗するのは他人が成功しているから、自分がよく暮せないのは他人がよく暮しているせいだと誰かを妬み、恨み、怒りをぶつけるのです。人の愛情や評価を巡って身近な人を対象にするので、子どもでも誰でも陥り易いものです。私たちはどうでしょうか。
あわれみ深い神は、激しく怒り顔を伏せていたカインに対して、優しく過ちを指摘して、悔い改めるように声をかけます。5〜7節。神としっかり向き合い、神との関係が正されるチャンスでした。神が来てくださり、過ちを悟るように神が言われたその時、過ちを悟って立ち返るなら、それ以上の過ちはしなかったでしょう。忠告を受け入れて自分の過ちを改めるなら、かえって祝福を受けたでしょう。
ところが、カインは忠告を受け入れず、罪はもっとひどくなりました。8節。アベルを逆恨みして、殺してしまいました。神の愛とあわれみをはねのけ、神に敵対する悪行でした。それでも、神は、直接責めることなく、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」とカインに尋ね、悔い改めを待たれました。9節。しかし、カインは「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか」と反論までします。どこまでも自分の過ちを認めません。
私たちは、人の評価を気にしてカイン・コンプレックスに陥るのではなく、「あなたのアベルはどこにいるのか」尋ねておられる神様の前に、過ちを悟って赦しを求める者であることを願います。
V−義人アベル−4, ヘブル11:4,ヨハネ4:23〜24
一方、神はアベルの礼拝を受けられました。4節。アベルは、最上のささげ物と一緒に自分もささげました。カインとは違って、普段から神の喜ばれる生活をして来たのでしょう。信仰によって神にささげ物をしました。心の伴った礼拝でした。ヘブル11:4。アベルは、自分が望む礼拝をささげたのではなく、神の望まれる礼拝をささげたのです。それによって、アベルが正しい人、義人であることが証明されました。
それなのに、カインに妬まれ、恨まれて、殺されてしまいました。8節。アベルは何も悪くありません。ただ、神が自分のささげ物を受けられたということで妬まれ、恨まれたのです。カインが「弟がどこにいるかは知らない、私は弟の番人なのか」と反論した時、神がカインに言われた言葉が重要です。10節。このことについては、イエス様も引用されておられます。マタイ23:35,ルカ11:51。正しくて迫害を受けた人々の血の報復を悪者が受けると言われています。ここで、イエス様は「義人アベルの血」と言われ、迫害された正しい人々の中に加えています。
なぜアベルは、義人と呼ばれるのでしょう。義人とは、どういうことでしょうか。彼の内面、霊的状態を言っています。霊的に義人だと言っています。聖徒たちは、義人であることが求められています。私たちは自分について、間違いもするし、罪もある、問題も多くあるから不義の人ですと言うでしょう。しかし、イエス様を信じて救われた者は、義とされています。ガラテヤ2:16。確かに私たちは足りないことが多く、間違いもありますが、イエス様の十字架の救いを信じた義なる存在とされているのです。
神がイエス様の十字架のゆえに義と言ってくださるのに、自分は義でないと思うのですか。それは謙遜ではありません。確かに過ちや足りないこともありますが、自分はイエス様の十字架によって義とされた価値ある存在であることを知る必要があります。Tペテロ2:24。なぜ、アベルが義人と言われていたのでしょう。信仰の人だったということです。ヘブル11:4 。「義人は信仰によって生きる」と言われている通りです。ローマ1:17。
信仰とは、イエス様の十字架による救いを信じる、自分を愛してくれる神に信頼する、御言葉とその御力を信じることです。ヘブル4:11の最後には、「その信仰によって、今もなお語っています」とあります。今日の10節が言うのも、アベルの信仰が訴えているということです。アベルはいつも、神に何でも訴える人だったのでしょう。 アベルは、何でも神に話す人だったのでしょう。
神が喜ばれる礼拝は、アベルのように信仰による礼拝、神様の御心を求める礼拝、従順の礼拝です。どんな礼拝をささげるべきか、イエス様が教えておられます。ヨハネ4:23〜24。御霊は聖霊を意味し、真理はイエス様を意味しています。聖霊に満たされる中で、イエス様を信じる信仰で礼拝する時、神が受けてくだる礼拝となります。ピリピ3:3。神への礼拝に失敗したカインは、神の御前に失敗した人生を生き、神に敵対する者の先祖になりました。11〜12節。ですから、神にささげる礼拝は私たちの人生にとって本当に重要なのです。ヨハネ4:23〜24。
創世記 4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によって一人の男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。
4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。
4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインは激しく怒り、顔を伏せた。
4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 もしあなたが良いことをしているなら、受け入れられる。もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
4:8 カインは弟アベルを誘い出した。ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって、殺した。
4:9主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」
4:10 主は言われた。「いったい、あなたはなんということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。
4:11 今や、あなたはのろわれている。そして、口を開けてあなたの手からあなたの弟の血を受けた大地から、あなたは追い出される。
4:12 あなたが耕しても、大地はもはや、あなたのために作物を生じさせない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」
4:13 カインは主に言った。「私の咎は大きすぎて、負いきれません。
4:14 あなたはきょう私を大地の面から追い出されたので、私はあなたの御顔を避けて隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となります。私に見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。」
4:15主は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」主は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた。
ヘブル11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ヨハネ4:23 しかし、まことの礼拝者たちが御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
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