2025年12月14日「はじめにことばがあった」ヨハネの福音書1:1〜5

序−主の御前にまっすぐ立つとは、いったい何を意味するのでしょうか。それは、今この瞬間、私と共にいてくださる主の御言葉の前に正しく立つということです。御言葉の前に立つ時、私たちは初めて真のクリスチャン、すなわち自分を否み、自らの十字架を負う主の弟子となることができます。

T−御言葉の前に正しく立つとは何か−1〜3
(1〜3)この御言葉こそ創造主なる神であり、創造主なる神が御言葉であり、御言葉が地上に来られた主イエス・キリスト(ロゴス)なのです。この御言葉だけが、私たちの自己中心を打ち砕き、かたくなな心を裂き、新しく生まれさせてくださいます。
ですから、主を信じていると言いながらも、御言葉の前に立たなければ、御言葉に自分を委ねなければ、御言葉に従って生きなければ、私たちは決して真のクリスチャンになることはできません。御言葉を離れて生きるなら、世の人々と何ら変わりはありません。最初の人間であるアダムとエバが堕落した理由は、社会構造の問題でも、貧しさの問題でもありませんでした。彼らはエデンの園という最も恵まれた場所にいました。「何一つ欠けているものはありませんでした。しかし、その豊かなエデンから堕落したのです。理由はただ一つ、神の御言葉を退けたからです。
(創2:16〜17)アダムとエバがこの御言葉の中にとどまっている間は、何の問題もありませんでした。秩序があり、平和があり、命がありました。しかし御言葉を無視し、最後には御言葉を踏みつけた時、すべてが一瞬にして混乱と問題に満ちた状態へと変わってしまいました。暗闇・混乱・無秩序・死へと落ちていったのです。では、失われたエデンの回復はどこから始まるのでしょうか。御言葉を失ったことが問題の始まりであったなら、解決もまた御言葉しかありません。御言葉を取り戻し、御言葉の前に立ち、御言葉に従うなら、すべての問題は終息し、エデンの回復が始まります。
(1〜3)すべてのものは御言葉によって造られました。ですから、御言葉は万物の「取扱説明書」です。当然、人間の生き方もその中に記されています。造り主がおられる以上、被造物である人間が御言葉に従って生きる時に初めて、人生の問題が解決されるのは当然のことです。創世記1章2節は、天地創造以前の状態「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり」と記しています。そこに「光あれ」との御言葉が響くと、混沌は消え、宇宙が秩序を持って造られました。御言葉によって造られたその世界をコスモス(秩序)と呼びます。このように創造の御言葉だけが、混乱した人間の人生、崩れた倫理、混沌とした心を回復させることができます。物質的豊かさでは決して回復できません。かつて物質的に繁栄していたソドムとゴモラが、なぜ滅びたのでしょうか。経済は豊かでありながら、人々は欲望と暴力の中で闇に沈んでいました。そこがまさにソドムとゴモラです。そこからの回復はどこから始まるのでしょうか。
(創1:1)すべてはこの宣言から始まります。創造主を正しく知ることは、神を正しく知るための第一歩です。
神は私たちをお造りになった創造主であるがゆえに、私たちを深く愛しておられるお方です。造り主が自らの作品を大切にし、愛するのは当然のことです。また、創造主である神は全能であり、無から有を生み、万物を造り出されました。創造主であるがゆえに、壊れたものを回復し、正しく整えることがおできになります。そして創造主である神に対して、私たちは理由を問わず従うべき存在です。
その御言葉は、被造物である私たちの人生の案内書であり、取扱説明書です。創造主であるゆえに、神は裁き主でもあります。造り主が自らの作品を正しく判断できるのは当然のことです。ですから、聖書が『初めに神が天と地を創造された』(創世記1:1)という言葉から始まるのは当然です。この真理から離れるなら、私たちの信仰は結局「必要な時だけ神を求める信仰」へと堕してしまいます。
(1〜3)天地を創造された神こそ御言葉です。御言葉が神であり、神が御言葉であり、御言葉が創造主であられます。

U−闇にとどまる者と、光を受け入れる者−4〜5
(4)創造の御言葉は命の御言葉、光の御言葉です。
命を造られ、光を呼び出された御言葉が、命であり光であるのは当然です。
(5)御言葉という光は、人間の闇の中に照らされました。しかし、闇にとどまる者たちはその光を受け入れず、自分の思いこそ真理だと錯覚してしまいます。創造主の御言葉であることを信じようとせず、光よりも自分の欲や恐れに従うそれが闇にとどまる者の姿です。神を信じていると言いながら、なお御言葉に従わないなら、光を退けた人々と同じ愚かさを歩んでいると言えます。
今日は待降節第3主日です。ここで、光を受け入れた者と、闇にとどまり光を受け入れなかった者の二つの姿を見ていきます。
(マタイ2:2〜3)ここでギリシア語でエタラフテ,「動揺」と訳されるヘロデの反応の裏には、「混乱する」「心がかき乱される」「恐れに包まれる」という意味を含んでいます。ヘロデ王は、光であるメシアの誕生を聞いて喜ぶどころか、恐れと動揺, 混乱に占められました。自分の権力の座が脅かされると感じ、多くの幼子を殺すという残酷な罪へと進んでしまいました。なぜヘロデは、来られた光を喜び迎えることができなかったのでしょうか。光は闇の中に輝いています。それでも、闇にとどまる者はその光を喜ばず、自ら進んで拒んでしまいます。闇に捕らわれた者は、光であるメシアが来られても見分けることができません。知ろうとしないために、自分の思いだけを真理だと錯覚してしまいます。ヘロデは自己中心と欲望に満たされていたため、光なる主を認識できず、その人生は罪に覆われました。
私たちも同じです。自分の内にある闇を主の御前に差し出さなければ、光に気づくことも、光を受け入れることもできません。
次に登場するのはマリアです。
(ルカ1:38)マリアは御使いから救い主のご誕生を知らされた時、その御言葉を信じて従いました。一方、ヘロデはその知らせを聞いても光を受け入れませんでした。
この二人にはどのような違いがあったのでしょうか
(ルカ1:37)マリアは、この御言葉を真実として受け取り、心から信じていました。光である主がまさに御言葉そのものであると悟っていたからこそ、彼女は迷うことなく御言葉に従うことができたのです。マリアは御言葉を受け入れました。
しかし、彼女の置かれていた環境や状況を考えると、それは決して簡単なことではありませんでした。
まずマリアは、当時の年齢で言えば中高生ほどの若い少女でした。そのような少女に突然、「あなたは身ごもります」という知らせが告げられたのですから、受け入れやすい状況ではありません。さらに、彼女にはすでに婚約者がいました。その婚約が破談になってしまう可能性さえありました。それにもかかわらず、なぜマリアは御言葉を受け入れ、従うことができたのでしょうか。
(1〜3)マリアが従うことができたのは、この真理を知っていたからです。私たちの置かれている環境や状況も、実はそれほど変わらないのではないでしょうか。それにもかかわらず、御言葉こそ真理であり、この御言葉なしには生きることができないと信じるなら、私たちもまた御言葉に従う者として歩むことができます。
今日は待降節第3主日です。主のご降誕を覚えつつ、ヘロデのように光の訪れを恐れ、混乱するのではなく、真の光であるイエス・キリストを喜び迎える者として歩んでいきたいと願います。

はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。この方ははじめに神とともにおられた。
すべてのものはこの方によってつくられた。つくられたもので、
この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネ1:1-5)



ヨハネ1:1〜5
1 はじめにことばがあった。ことばは神とともにあったことばは
神であった
2 この方ははじめに神とともにおられた。
3 すべてのものはこの方によってつくられた。
つくられたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった
4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった

創世記2:16?17 神である主は人に命じられた。あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ

創世記1:1 初めに、神が天と地を創造された

マタイ2:2?3 ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった


ルカ1:38 マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように

ルカ1:37 神にとって不可能なことは何もありません。

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