2025年12月28日「信じるためであった」ヨハネの福音書1:6〜8
序−今日の本文は、ヨハネについての証しです。ここに出てくるヨハネとは、主の十二弟子の一人でありヨハネの福音書を書いた使徒ヨハネではありません。イエス・キリストの時代、ヨルダン川でバプテスマを授けていたバプテスマのヨハネのことを指しています。バプテスマのヨハネは、この地に来られたイエス・キリストの道を備える人でした。誰かの道を備えるということは、決してだれにでもできることではありません。ましてや、メシアであるイエス・キリストの道を備える働きが、どれほど重大な使命であったかは言うまでもありません。このような意味で、バプテスマのヨハネは、まことに偉大な人物であったと言えるでしょう。血縁的にはイエス・キリストの親族であり、生まれる前から母の胎内で聖霊に満たされていました。荒野で神のことばを叫ぶと、エルサレム中の人々が彼のもとに集い、悔い改めたほどの力ある説教者でもありました。それだけではありません。ヨルダン川でイエス様にお会いした瞬間、この方こそ主であると悟り、「この方がメシアである」と宣言しました。まだ誰一人、イエス様がメシアであることを知らなかった時のことです。さらに、彼はそのイエス様の頭に手を置き、バプテスマを授けました。人が、地上に来られた神の御子にバプテスマを授けるなど、だれが想像できたでしょうか。しかし、バプテスマのヨハネはその働きを担いました。考えれば考えるほど、彼は偉大な預言者であったと言わざるを得ません。
T しかし、彼は「光」ではなかった
ところが、今日の本文はこのようにはっきり証ししています。(ヨハネ1:8)聖書は、これほど偉大なバプテスマのヨハネについて、きわめて明確に宣言しています。どれほど彼が偉大であっても、彼は光そのものではない。光であるメシアを証しするための道具であり、用いられる道具にすぎないのです。では、バプテスマのヨハネがイエス・キリストを証しした目的は何だったのでしょうか。その答えを、本文6〜7節が示しています。
(ヨハネ1:6ー7)人々が自分を通してイエス・キリストを信じるようになること、これこそが、バプテスマのヨハネが主を証しした目的であり、同時に、主の道具として彼が生涯守り続けた立ち位置でした。もし彼が、自分の偉大さや人々の熱狂に酔いしれ、自分を光の道具ではなく、光そのものだと錯覚していたなら、彼は不幸な人間になっていたでしょう。なぜなら、自分のアイデンティティを見失う者は、必ず自滅するからです。
U 自分が誰であるかを知っていた人
しかし、バプテスマのヨハネは、多くの誘惑の中にあっても、決して自分の立ち位置を忘れることはありませんでした。彼の説教に心を打たれ、バプテスマを受けた人々の中には、「この人こそ神が遣わされたキリストではないか」と考える者さえいました。それほど彼の影響力は大きかったのです。しかし、彼は一度たりとも高慢になることはありませんでした。彼ははっきりとこう言いました。(ヨハネ1:20)そして、さらにこう語ります。(ヨハネ3:30)このように、バプテスマのヨハネは、どの瞬間においても自分の立ち位置を見失わなかったからこそ、今日に至るまで、主の道を備えた偉大な預言者として立ち続けているのです。
V.教会とクリスチャンのアイデンティティ
(ヨハネ1:8)この御言葉は、教会とクリスチャンの正体をも明確に示しています。教会とは何でしょうか。クリスチャンとは誰でしょうか。教会やクリスチャンは、光そのものでしょうか。決してそうではありません。教会とクリスチャンは、光であるイエス・キリストを証しする道具であり、証人なのです。その目的は、世の人々が光であるイエス・キリストを信じるようになるためです。しかし、歴史を振り返ると、多くの教会やクリスチャンが、自分たちのアイデンティティを忘れ、光を証しするどころか、かえって光を遮ってしまったことも事実です。
光の道具にすぎない者が自分を光だと錯覚した瞬間、そこに現れるのは、人間の醜さだけです。「あなたがたは世の光です」という御言葉を思い出し、「なぜ私たちは光になれないのか」と反問する人もいるでしょう。確かに主は言われました。「あなたがたは世の光です。」(マタイ5:14)しかし、これを「自分たちが光そのものだ」と理解するなら、それは主のことばを知っていないと言うことです。たとえば、ここに最高級のろうそくが山のように積まれているとしましょう。しかし、どれほど多くのろうそくがあったとしても、ろうそくそのものが自分で光を放つことは決してありません。同じことが、油を満たしたともしびにも言えます。どれほどよく精製された油で満たされていたとしても、外から火が与えられなければ、それは光になることができません。火は、ろうそくやともしびの内側から生まれるものではなく、必ず外から与えられるものなのです。そして、その火が与えられてはじめて、ろうそくも、ともしびも、光を放つことができます。
火が灯ったろうそくやともしびは、あたかも光そのもののように見えますが、実際には、光そのものではありません。それらは、外から与えられた光を受けとめ、保ち、周囲に伝えるために用いられる器にすぎないのです。同じ理由で、「あなたがたは世の光です」と言われた主の御言葉は、私たち自身が主と同じ光そのものである、という意味ではありません。それは、主の光を宿し、保ち、伝えるための器・道具として生きよ、という意味なのです。だからこそ主は、「あなたがたは世の光です」と語られたあと、私たちが誤解しないように、次のような説明を加えられました。(マタイ5:14?16)つまり、私たちが主の光を保ち、伝える光の器として生きるとは、主の御言葉に従って、誠実な歩みを重ねていくことにほかなりません。そのとき、私たちの生き方そのものがともしびとなり、イエス・キリストの光がこの世に照らし出されていきます。そして、その結果は、最終的に神への栄光へと帰っていくのです。それゆえ、光の道具であり、同時に光の証人である教会とクリスチャンは、御言葉の前に立って、御言葉に照らされながら、絶えず自分自身を省み、自分を否定し、心を清めていかなければなりません。もしそれを怠るなら、教会とクリスチャンは光を放つどころか、黒い欲望のすすを吐き出しながら、自分は光であると錯覚する闇の奴隷へと堕してしまいます。そして、その瞬間から、教会とクリスチャンは世を照らす存在ではなく、世を汚染する根源になってしまうのです。これこそが、二千年の教会史が私たちに語り続けてきた、重く、しかし明確な教訓ではないでしょうか。御言葉の前での自分自身を省み、自分を否定し、心を清め欠けた教会や信徒は、もはや真の教会、真のクリスチャンであり得ない理由が、ここにあります。私たちは、決して光そのものではありません。私たちは、光を伝えるために選ばれた器であり、用いられる存在です。だからこそ、その光を正しく守り、正しく伝えるために、私たちは自己省察、自己否定、自己清めに決して怠ってはなりません。そして、そのすべては、自分が何者であるかを正しく知ることの上にしか成り立ちません。自分のアイデンティティを見失ったままの自己省察、自己否定、自己清めなど、そもそも不可能なのです。たとえそれを百回繰り返したとしても、正しい光の道具になることはできません。多くのクリスチャンは、口では神の御心を語りながら、実際には自分の思いを優先して生きています。だからこそ、自分の願いが挫折すると、すぐに嘆き、落胆してしまうのです。少なくともその瞬間、神を信じない人々と、何一つ変わらない姿をさらしてしまいます。どれほど立派な制度と組織を備えた教会であっても、そこに集う一人ひとりの生き方が世と何ら変わらないのであれば、その教会がどうして光を放ち、人々を光である主へと導く道具になれるでしょうか。たとえ一日であっても、古い欲望の人生へと戻って生きるのか、それとも、人を生かす光の証人として生きるのか。主の教会が、単なる社交の場となって光を妨げる存在になるのか、それとも、世を救う光の道具となるのか。それを決めるのは、ただ一つ。私たち一人ひとりが、信仰の中で自分のアイデンティティを正しく認識し、それを正しく守り続けるかどうかなのです。皆さんを通して人々がイエス・キリストを信じるようになること。それこそが、皆さんが主を証しする目的であり、主の道具として守るべき生きる立ち位置なのです。
ヨハネ1:6〜8
6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。」
8 彼は光ではなかった、ただ光について証しするために来たのである
ヨハネ1:20 私はキリストではありません。
ヨハネ3:30 あの方は盛んなり、私は衰えなければなりません。
マタイ5:14?16
14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
15 また、明かりをともして、升の下に置いたりはしません。
燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。
人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
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