2026年1月4日「神の子どもとなる特権」ヨハネの福音書1:9〜13

序−人間は、身分の上で神と同じになることはできません。神は創造主であり、私たちはその神によって造られた被造物だからです。創造主と被造物は、どのような場合でも対等にはなり得ません。それにもかかわらず、今日の本文は驚くべき事実を示しています。それは、私たちが神と同じ身分に受け入れられるということです。(ヨハネ1:12)光としてこの地に来られた主を受け入れるなら、その名を信じるなら、神様は私たちに神の子どもとなる特権を与えてくださいます。では、人が神の子どもになるとは、いったい何を意味するのでしょうか。創造主である神が、被造物にすぎない人間を、ご自分の子どもとして迎えてくださるというのは、神が取るに足らない人間を、ご自分と同じ身分として受け入れてくださるということを意味します。(ヨハネ1:13)主を受け入れ、その名を信じる者は、形式的・名目上の子どもになるのではありません。名実ともに神の子どもとして迎えられるのです。神様が私たちをご自分の子どもとしてくださるということは、神様が私たちの本当の父になってくださる、ということです。では「父」とは、いったいどのような存在でしょうか。ここにおられる皆さんの多くは、だれかの親です。皆さんは自分の子どものためなら、時間も体力も、あらゆるものを惜しまずに注ぎます。子どもが一人では解決できないことのために、金にも代えがたい時間を投じます。子どもが自分の力ではたどり着けない場所なら、足が腫れ、数日寝込むことがあったとしても、背負ってでも目的地まで連れて行こうとします。皆さんは創造主ではありません。弱く、限りある人間にすぎません。それでも親の愛がこれほどであるなら、どうして父なる神様の愛がそれ以下であり得るでしょうか。神様は、ご自分の子どもである私たちに、罪の赦しと救い、真のいのちと永遠の御国、そして真理の中での新しい歩みを与えてくださいました。それらすべてを無償で与えるために、神様はご自分のひとり子を十字架のささげものとさえなさいました。この途方もない愛の前では、私たちが子どもに向ける愛を「愛」と呼ぶことさえ、恥ずかしくなるほどです。
そして主はこう語られました。(マタイ7:9〜11)神様から与えられるものが、ときに私たちには痛みや苦しみ、涙のように見えることがあります。しかしそれは、被造物である私たちが、自己中心に染まった思いで見てしまうことによる、ただの思い違いにすぎません。神様から与えられるすべてのものの本質は、いつも「より良いもの」へと導かれていくのです。なぜなら神は、私たちをご自分の子どもとしてくださった、私たちの父だからです。これこそが、今日の本文が私たちに伝えているメッセージです。

T 神の子どもとなる特権とは何か
では、神の子どもとなるために、「主を受け入れ、その名を信じる」とは、具体的に何を意味するのでしょうか。それは、自分のために歩んできた道が誤りであったと気づき、人生の方向を根本から変えることです。ルカの福音書15章には、いわゆる「放蕩息子」が登場します。彼は父の財産を半分も持ち出して父のもとを離れ、放蕩の道を歩み、あたかも快楽が人生の目的であるかのように、尊い若さをむなしく浪費しました。しかしその結末は、あまりにも悲惨でした。獣にも劣るような境遇に落ちても、彼に救いの手を差し伸べる者はだれもいませんでした。ついに彼は父を思い出します。自分の過ちを悔い、父の「子ども」ではなく「しもべ」になるつもりで、父の家へ帰り始めました。父のいない人生よりも、たとえ父のしもべであっても父と共に生きることの価値に、遅れて気づいたのです。罪とは何でしょうか。自分の欲望を追って父を離れたことです。悔い改めとは何でしょうか。父のもとへ帰ることです。主を受け入れるとは何でしょうか。主を信じるとは何でしょうか。自分の人生が罪の道であり、自分が歩んでいる道が死の道であると悟って、神である父のもとへ180度向きを変えて帰ることです。その放蕩息子がそうしたとき、何が起きたでしょうか。彼が村の入口に近づいたとき、まだ距離があるのに、日ごとに息子を待ち続けていた父が、先に気づき、走り寄り、みすぼらしい姿の息子を抱きしめて迎えました。父は、父を捨てた息子をしもべにはしませんでした。最上の服を着せ、「あなたは変わらず私の息子だ」というしるしとして指輪をはめさせました。そして村人を集め、宴を開いてこう言いました。(ルカ15:23下?24上)父を捨てた息子、若さをむなしく浪費した息子は、父のために何かをしたでしょうか。強いて言えば、自分の罪を悔い、父のもとへ帰っただけです。しかし、その「帰り」が父との関係を回復しました。父は本当の父だったからです。天地を造られた父なる神の子どもとなる道も、まさにこれです。自分の歩みが誤りだったと悟り、人生の方向を変えること。自己中心の生き方を捨て、父のもとへ帰ることです。そのとき神様は私たちを抱きしめ、迎え入れ、ご自分の子どもとして身分を回復させてくださいます。死ぬしかなかった罪人、絶望と混乱、そして闇の中をさまよっていた人間が、神の子どもとされるすなわち、神と同じ身分として受け入れられること、まことに驚くべき特権にほかなりません。

U 特権は「義務」を伴う
だからこそ、すでに神の子どもとされた私たちは、神様から与えられたこの特権に対する責任を果たさなければなりません。本文で「特権」「権威」と訳されるギリシア語 exousia(エクスーシア)は、「特別な権利」という意味を持ちます。しかし、真の特権は特権そのものにとどまりません。真の特権は、いつでもそれにふさわしい義務を伴います。その義務を果たすとき、特権は人を傷つける武器にも、自分を堕落させる凶器にもなりません。むしろ、自分をも、他者をも生かす、香り高いいのちの器となるのです。父が放蕩息子の「息子としての特権」を回復したのは、「これからも放蕩してよい」という意味では決してありませんでした。「今からは、父の子どもとして恥じないように正しく生きよ」という願いでした。息子が義務を果たしたから回復されたのではありません。放蕩の姿で帰ってきたにもかかわらず、父の愛が息子の特権を回復したのです。しかし同時に、その息子には当然、息子らしく生きる義務が与えられました。それにもかかわらず、もし息子が与えられた特権に伴う義務を自覚しないなら、これから先、まともに生きることはできません。罪と死の子であった私たちが神様に向き直るとき、神様が私たちの醜い罪を赦し、神の子どもとなる特権を与えてくださるのは、私たちを欲望のままに生かすためではありません。今からは、神にふさわしく、神の子どもらしく、正しい歩みの責任を果たさせるためです。私たちが先に神様への義務を果たしたから神様の子どもになったのではありません。なお罪人であった私たちに、神様が先に「子どもとなる特権」を与えてくださったのです。だからこそ、無償で与えられたこの特権にふさわしく歩む責任を、私たちは果たさずにはいられません。神様の子どもとなった特権を味わいながら、神様の子どもとして生きる責任を顧みないなら、その人は健全なクリスチャンとして生きることはできません。健全なクリスチャンとは、神の愛を知り、その愛に人生そのもので応えていく人なのです。

V.子どもらしく歩む者が信頼される
フランスのことわざに「ノブレス・オブリージュ」という言葉があります。高い身分には、それにふさわしい義務が伴う、という意味です。特権だけを享受し、義務を軽んじるなら、その人は一般の人よりも低い存在になってしまいます。もし非難される政治家がいるとするなら、特権だけを享受し、ノブレス・オブリージュを果たさないからでしょう。今日、教会とクリスチャンが「神の子どもである特権」だけを求め、神の子どもらしくノブレス・オブリージュを果たそうとしないなら、私たちは正しい主の子どもだとは言えません。私たちが神様に向き直り、神の子どもとなる特権をすでにいただいていると信じるなら、これからは神の子どもらしくノブレス・オブリージュを果たし、神である父に信頼される働き人となるべきです。この世の親はだれでも子どもを愛します。しかし、子ども一人ひとりへの「信頼」がまったく同じとは限りません。子どもとしての責任に忠実な子を、親はより信頼し、自分の仕事を任せます。その子が親の思いを正しく理解し、実行できるからです。神と私たちの関係も、まったく同じです。神は、神に向き直るすべての人の父になってくださいます。しかしその中でも、神の子どもらしくノブレス・オブリージュを果たす者に、神はご自分の御国の働きを委ねられます。神に向き直る者は救われます。しかし、救われた者が皆、使徒パウロになるわけではありません。救われた者の中で、パウロのようにノブレス・オブリージュを果たす者が、神の国の働き人として用いられていくのです。



ヨハネ1:9〜13
9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。"

マタイ7:9〜11
9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
10 魚を求めているのに蛇を与えるでしょうか。
11 このようにあなたがたは悪い者であっても自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです、それならなおのこと、天におられるあなたがたの父はご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

ルカ15:23下〜24上
食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。

ヨハネ16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。

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