2026年1月11日「ことばは人となって」ヨハネの福音書1:14〜18

序−道の途中に、大きな岩が転がっているとしましょう。それを作業員が細かく砕いて道路の舗装に使えば、役に立つ材料になります。家を建てる人が整えて礎石や石垣に用いれば、その価値はさらに高まります。もし偉大な芸術家がのみで彫って彫刻を造るなら、命を宿した芸術作品になるでしょう。しかし、道の真ん中にそのまま放置されているなら、人の通行を妨げる障害物でしかありません。同じ岩であっても、どう用いられるかによって、その価値は大きく変わります。貴重な作品へと高められることもあれば、何の益にもならない障害物として捨てられることもあります。人間の肉体も同じです。人の肉体は、およそ70%が水分、およそ30%が有機物と無機物で成り立っています。けれども、同じ比率と成分でできている肉体でも、どう用いられるかによって、悪臭を放って朽ちていく“ただの肉”で終わることもあれば、美しい香りを放つ真理の器へと高められることもあります。主はこう語られました。(ヨハネ 6:63)この御言葉を誤って理解して、肉体そのものを悪いものと見なし、病的な禁欲主義に陥ったり、さらには自分の体を傷つけるような方向に進んだ人々もいました。しかし主が言われたのは、肉体そのものが無益だという意味ではありません。肉体“だけ”のために生きる生き方が無益だということです。なぜなら、私たちの肉体は永遠ではないからです。(詩編 90:10)。人生は確かなもののようでいて、結局は70〜80年で終わってしまいます。それも、飛ぶように過ぎていきます。私自身、十代の頃がつい昨日のことのようなのに、気づけばもう三十四歳です。これほど時が早いなら、あと何度かまばたきをするうちに、私の肉体も土の中で朽ちているかもしれません。これが人生の現実です。だからこそ、肉体を目的にしてしまう生き方は、無益にならざるを得ません。しかし、限りがあり弱いこの肉体が、真理の道具となるなら、その価値は驚くほど美しく、永遠に至るものへと高められます。肉体とは、目に見えない真理を映し出す“スクリーン”であり、私達の内におられるイエス・キリストを映す“鏡”です。肉体がなければ、霊的なものは私たちの生活の中では表されません。この意味で肉体は、この世のどんな宝石よりも尊いものです。肉体は、霊的なものを受けとめ、保ち、そして目に見える形で示すことができる器だからです。

T 肉体は「障害物」にも「真理の器」にもなる
では、神の子どもとなるために、「主を受け入れ、その名を信じる」と同じ岩が、道路材料にも、礎石にも、芸術作品にもなり得るように、同じ肉体も、どう用いられるかによって価値が変わります。肉体のために生きるなら、やがて朽ちるだけです。けれども主に用いられるなら、肉体は真理を映す器となり、香りを放つ道具となり得ます。問題は、肉体を持っているかどうかではありません。この肉体を、だれのために、何のために用いるのかそこに分かれ道があります。

U 「ことばは人となって」主は私たちの間に住まわれた
(ヨハネ 1:14)天地をことばによって創造された神のひとり子イエス・キリストは、二千年前、この地に来られるとき、人(肉体)となって来られました。ここで「住まわれた」と訳されている言葉は、ギリシア語で「スケノオー」と言い、「幕屋を張る」「天幕を設けて共に住む」という意味を持っています。つまり主は、罪人である私たちが生きる場所に、私たちと同じ生活の場に、“共に住む”ことを選ばれたのです。これは何と驚くべきことでしょうか。もちろん本質において、イエス・キリストの人としての歩みは私たちと同じではありません。私たちは罪人ですが、イエス・キリストは罪のないお方だからです。けれども機能においては、主は確かに私たちと同じ「人」として歩まれました。食べ、眠り、疲れを覚え、そして十字架の上で極限の苦しみの中で叫びさえされた主は、人としての現実を引き受けてくださいました。では、なぜ神のひとり子が、わざわざ人となって来られたのでしょうか。それは、目に見えない神を、私たちに“見えるように”示すためです。(ヨハネ 1:18)神は霊であり、霊である神を直接見ることのできる人は誰もいません。しかし神は、ご自分のひとり子であり、まことの神であるイエス・キリストを通して、ご自身をはっきりと示されました。ではイエス・キリストは、どのようにして神を示されたのでしょうか。それは、イエス・キリストが人となって来られたその「生き方」を通してです。イエス・キリストが人として歩まれたその身体そのものが、目に見えない神を映し出す道具であり、鏡であり、またスクリーンでした。イエス・キリストはガリラヤの貧しい地に来られることで、貧しく、疎外された者を愛される神を示されました。重い皮膚病の人を清め、死んだ者を生かし、五つのパンと二匹の魚によって多くの人を養われることで、天地を創造された神の力を表されました。そして人間の罪の代価を担うために、ご自分のいのちを十字架の上で献げることで、罪人を愛し抜く神の愛を証明されました。さらに、死からよみがえることによって、神の永遠のいのちを明らかにされたのです。これらすべては、主が人となってこの地に来られたからこそ可能だったのです。私たちは、主が人として歩まれたその生涯を通して、神を見てきましたし、今も見ており、そしてこれからも見続けていくでしょう。主の地上での生涯は、わずか三年ほどにすぎませんでした。それにもかかわらず、その短い歩みが時空間を超えて人類の歴史を新しくしてきたのは、主が人として生きるその姿を通して、霊である神を余すところなく、真実に示されたからにほかなりません。

V.恵みの上に、さらに恵み―私たちの応答
(ヨハネ 1:14)ことばとしておられた主は、人となってこの地に来られました。この方は、父のひとり子であり、恵みとまことに満ちておられるお方です。本文は、「まこと」に満ちていることよりも先に、
「恵み」に満ちていることを語っています。それほどまでに、主の恵みは重要なのです。この恵みがなければ、私たちは死と罪の束縛から解き放たれることもできず、神に救われた者としてふさわしく生きることもできません。そして本文は、そのような私たちに対して、主がさらに「恵みの上に恵み」を与えてくださることを明らかにしています。(ヨハネ 1:16)このみことばを、あえて言い換えるなら、こう言えるでしょう。「私たちは皆、この方から、恵みの上に恵みを、繰り返し受け続けてきたのです。」私たちは振り返るほどに、恵みの上に恵みを受けてきたのではないでしょうか。二千年前、ことばが人となって私たちのために来られたその事実そのものが、すでに大きな恵みです。そして二千年後の今日、2026年1月11日、私たちはこの教会で礼拝をささげています。けれども、同級生や職場の同僚のすべてが教会に来ているわけではありません。むしろ来ていない人のほうが多いのが現実です。それなのに、私たちは今ここで、救いの恵みにあずかる者として座っています。では、私たちが救いのために何か先に努力したのでしょうか。救いに関して、私たちが先に成し遂げたと言えるものは、ほとんどありません。むしろ、だれかが私たちのために祈り、だれかがあきらめずに福音を伝え、だれかが時間と心を注いで導いてくれたのではないでしょうか。それは、その人たちの利益のためではありません。神が、私たちに恵みを届けるための道具として、その人たちを用いられたのです。考えるほど、恵みであり、恵みの上にさらに恵みです。
だからこそ、恵みを恵みとして知る者は、自分を主の道具として差し出していきます。救いを得るためではありません。すでに恵みによって救われたからこそ、その愛に応答したいのです。それが、主へ委ねる事であり、主のための自己否定です。私たちが主を知らなかった時にも、主は恵みを重ねてくださったのです。ならば、私たちが恵みを恵みとして受けとめ、この人生を主のために用いるとき、主がさらに注いでくださる恵みは、どれほど大きいことでしょうか。主が人となってこの世に来られたのは、私たちに恵みを注ぐためです。どうか私たちが、その恵みに心から応答する者となれますように願います。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ 1:14)

この主に出会い、この恵みに生かされ、私たちの肉体、この限りある人生そのものが、主の真理を映す器として用いられていきますように願います。



ヨハネ1:14〜18
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」
16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。"

ヨハネ 6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

詩編 90:10 私たちの齢は七十年。 健やかであっても八十年。 そのほとんどは 労苦とわざわいです。 瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。

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