2026年2月22日「飢饉が起こったので」創世記12:5〜20
序−私たちは、信仰を持って生きようとしているのに、問題に出会い、困難に陥ることがあります。信仰で生きているのに、どうしてこんな目にあうのか、信仰しているのになぜ困難に陥るのと悶々とします。そのような時、私たちはどのようになりやすいのでしょうか。神はどうしてくださるのでしょうか。アブラハムの姿から学びます。
T−飢饉が起こったので−5〜10
ハランにいたアブラハムに神の召しがあり、アブラハムはハランを出発して、カナンに到着しました。5節。長い道のりを旅してついにカナンの地にやって来ました。不安や恐れもあったでしょう。6節を見ると、「その地にはカナン人がいた」と記されています。そこには先住の民がおり、そこに住み着く困難さを思わせています。カナンの地は、ウルやハランのような大河が流れる豊かな土地ではなく、気候も厳しかったようです。
アブラハムの気持ちを想像してみましょう。そんなカナンに来てみて、不安や恐れを抱いただろうと思われます。でも、アブラハムに主が現れ、「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える」と言って、励ましてくださいました。不安や恐れを抱く時、神に祈り、御声を聞くことが大事です。それに対して、アブラハムも行く先々で祭壇を築いています。7〜8節。祭壇を築くというのは、礼拝をささげたということです。「主の御名を呼び求めた」というのは、主を賛美したということです。この時までは、アブラハムは信仰的に生きようとしていたのです。
ところが、カナンの南部のネゲブまで進んで来ると、問題が発生しました。9〜10節。カナン人を避けてなのか、カナン南部の乾燥地帯まで来ました。そして、「その地に飢饉が起こった」のです。自分一人だけでなく、家族や同行する使用人たちもいました。きっとアブラハムは思ったでしょう。「神の召しに応えてカナンに来たのに、信仰で生きようとしていたのにどうして。この地で飢饉にあい、苦しむなんて、なぜだろう」私たちも問題が起こると、思うように行かないと、信仰をもって生きようとしているのに、なぜ、どうして」と悶々とするでしょう。「真面目に信仰したって、何の益があるのか」と信仰を疑うようになるでしょう。真面目に信仰に生きて、頑張っていれば祝福してくださると期待しているのに、アブラハムのように飢饉のような苦難が起こるのです。耐え難い苦難が起こったら、どうなるのでしょう。仕事や生活がうまく行かなくなる、人間関係が難しくなる、健康に問題が生じるように、突然私たちの人生にも飢饉が訪れるのです。苦難が起こって来るのです。
しかし、落ち着いて考えてみれば、真の神を信じている者も信じていない者も、問題に遭います。熱心に信仰する者もそうでない者も、苦難に陥ります。そこに変わりはないのです。Tコリント10:13。大事なことは、その問題をどう受け止めるのか、どう苦難に対処するのかということです。そして、聖書から学ぶことは、苦難にも祝福が隠されており、脱出の道も備えられているということです。
しかし、苦難が来る時、いたずらに文句を言ったり、あらぬ方向へと動き回ったりするなら、苦難はひどくなり、人生が混乱することになります。御言葉に聞かない御言葉の飢饉になれば、霊的飢饉に陥ります。アモス8:11。ですから、神を信頼して信仰で苦難に対処し、隠れた祝福を得られることを願います。私たちの人生に飢饉が訪れる時、最後まで神に拠り頼み、御言葉に聞き従うのか、それとも自分の考え、自分の思う道を選択するのかの選択です。この時のアブラハムは、どうしたのでしょう。
U−エジプトに下って行った−10〜16
飢饉にであったアブラハムは、飢饉を避けて、しばらくの間エジプトに滞在しようと下って行きました。10節。エジプトは、雨が降らなくなっても、ナイル川がありますから、穀物が実る地でした。飢饉が激しかったから、エジプトに避難したのは当たり前だと思うかもしれません。
しかし、ここには、信仰的な誤りがあります。約束地カナンを離れることになるからです。カナンの地は、エジプトのように豊かでなくても、それだけ神だけを依り頼んで生きる地でした。神の約束の言葉を信じていかなければ生きていけない地でした。一方、エジプトは雨が降らなくても、飢饉になっても生きて行ける地、神の助けを必要としない地でした。アブラハムは、そういう地へ行こうとしたのです。つまり、そこでは神を離れて神がいなくてもいいという危険があるのです。今日も、多くの聖徒たちが、人生の飢饉の時、エジプトにくだってしまいます。エジプトへの道は神から離れる道です。
私たちも、ときにはカナンからエジプトへ下ろうとするかもしれません。困難や貧しさを避けて豊かで神なしの所へと行くように試みを受けるのです。しばしば私たちが、霊的カナンの地で他の何よりも神に拠り頼んで生きるかどうか、試みを受けるのです。そんな時、私たちはどうなる危険があるのでしょうか。試みに負けてエジプトに下ったアブラハムは、どうなったのでしょう。
エジプトに下ったアブラハムは、神のいないような姿となってしまいます。11〜13節。記念すべき初めてのアブラハム自身の言葉は、残念なひどい言葉です。なぜ、こんなになったのでしょう。神がともにおられるカナンを離れて、恐れを覚えたからです。そして、考えられないほどの嘘つき、卑怯な人になってしまいました。あの神の召しに立派に応えた信仰のアブラハムの姿は微塵もありません。神を離れて自己中心となり、妻を犠牲にして自分だけ守ろうとした姿です。そうした方が「事がうまく運ぶ」とさえ言うのです。考えられない姿です。
他人事ではありません。神が私たちの中からいなくなってしまえば、恐れや不安の中で、私たちの言動も狂って来ます。自分勝手になり、罪をなすことにもなりかねません。このアブラハムの姿から、神なしで私たちが生きる姿がどれほど愚かなになるのか悟らせてくれます。湖の上を歩いていたペテロがイエス様から目をそらしたら、おぼれそうになりました。マタイ14:29〜32。私たちがイエス様から目をそらしてら、危険です。
このアブラハムの浅はかな思惑の結果、大変なことになってしまいます。14〜15節。妻サライがエジプト王ファラオの宮殿に召し入れられました。ここまでは考えはしなかったでしょうが、妹だと嘘を言えば、当然このような可能性があると思ったからこそ、「あなたのゆえに事がうまく運び」と言ったのです。13節。皮肉にも、16節には「物事は彼女のゆえにうまく運んだ」と記されています。神なしの選択がこれほどまでに危険な結果をもたらしたのです。
V−主の守り−17〜20
神のご計画は変わりません。このままでは、「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする」という約束が反故となってしまいます。創世記12:2。アブラハムの恐れのせいで、遂行のために、神の計画が崩壊する危機となりました。この危機の瞬間に神が介入されました。17節。神は「ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれ」サライをファラオの宮廷から救出してくださいます。18〜20節。疫病などの「わざわい」で、ファラオを苦しめることで、サライを解放させるようにさせたということです。
主はアブラハムをあわれみ、助けてくださっただけでなく、なぜこのような危険な結果になったかを考えさせ、省みさせておられます。18〜19節。ファラオの口を通して、3回も嘘をついたことを責めさせておられます。アブラハムは何も答えられませんでした。痛いほど自分の神なしの選択と考えが愚かなことか分かったのです。私たちの自分の不信仰な選択のために世の人々から注意され、責められるならば、それがどんなに愚かなことであったかを痛感するでしょう。
最後の20節にひっかかりませんか。得したのように見えますか。いいえ、「所有するすべてのもの」って、嘘をついて妻と交換に所有したものではありませんか。16節。不義によって得たものは、その代価を支払うことになります。ファラオから得た所有物、急に増えた家畜と使用人のために、甥のロトと争いが起こることになります。創世記13:6〜7。さらには、この時の女奴隷がイシュマエルを生むことになり、アブラハムの家庭に混乱を生じさせることになります。創世記16:1〜2。苦難の時に不信仰で対処すれば、さらに苦難に遭うことになりかねないのです。
ですから、苦難に遭った時は、神に聞いて、聖書的に行動することが必要です。人生に飢饉のようなことが起こったら、この信仰の原則で対処することです。自分の考えと自分の方法ではなく、神の御旨に適うように考え、神の方法で行動しようとすることが肝要です。順境の日には幸いを味わい、逆境の日には、信仰でよく考えるのです。伝道者7:14。
人生の飢饉である苦難が訪れたら、すぐに神の御前に出て、その意味を理解して、信仰で対応しなければなりません。悔い改めが必要ならば悔い改め、鍛錬ならば忍耐して隠れている祝福を見つけるのです。ガラテヤ6:8。苦難自体が問題なのではありません。苦難をどう受け止め、どう対処するかということです。飢饉に遭う時、信仰の原則で対応することを願います。伝道者7:14。
創世記12:5 アブラムは、妻のサライとおいのロトと、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人々を伴って、カナンの地向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。
12:9 アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。
12:10 その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。
12:11 彼がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。
12:12 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたは生かしておくだろう。
12:13 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生きのびられるだろう。」
12:14 アブラムがエジプトにやって来たとき、エジプト人はサライを見て、非常に美しいのを思った。
12:15 ファラオの高官たちが彼女を見て、ファラオに彼女を薦めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。
12:16 アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
12:17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた。
12:18 そこで、ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私に何ということをしたのか。彼女があなたの妻であることを、なぜわたしに告げなかったのか。
12:19 なぜ『私の妹だ』と言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れたのだ。さあ今、あなたの妻を連れて、去るがよい。」
12:20 ファラオがアブラムについて家来に命じたので、彼らは彼を、妻と、所有するすべてのものと一緒に送り出した。
Tコリント10:13 あなたがたが敬虔した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
アモス8:11 見よ。その時代が来る。──神である主の御告げ──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。
伝道者7:14 順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後の事を人に分からせないためである。
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