2026年3月8日「最初のしるし」 ヨハネの福音書2章1〜12
序−祝いの日の第一の特徴は、喜びに満ちているということです。
祝いの中心にいる人が、悲しんだり嘆いたりすることはありません。祝いそのものが、喜びだからです。本文によれば、ガリラヤの小さな村カナで婚礼の祝いが行われました。集まった人々は皆、喜び、心を弾ませていたはずです。ところが、突然問題が起こります。ぶどう酒が尽きてしまったのです。これはただ事ではありません。このように、人々が楽しみ喜んでいる場所、そのような場所にも問題は必ず起こるこれが本文が伝える第一のメッセージです。祝いの日の第二の特徴は、人が多く集まることです。人が集まらない祝いは、祝いではありません。これはどこでも同じです。とりわけユダヤの婚礼は特別でした。余裕のない人でも少なくとも一週間、祝いを行い、裕福な場合は二週間にも及びました。村全体が祝いの雰囲気に包まれたのです。カナの祝いにも、多くの人が集まっていました。賢い人もいたでしょう。経済的に余裕のある人もいたでしょう。力ある人もいたはずです。しかし、その「人が大勢いる場所」で問題が起こったのです。人が多いからといって、人の問題が自然に解決するわけではありません。これが本文の第二のメッセージです。人数が問題を解決したり、減らしたり、根絶できるのではありません。むしろ人が多いほど、予想しない問題が増えます。教会も同じです。人が多いから真の教会になるのではありません。教会が人数を誇り始めるなら、その瞬間から教会は、問題の震源地となりうるのです。祝いの喜びや高揚感では解決できない問題。人数でも解けない問題。しかしその問題は、イエス・キリストによって終わりました。人間の力が尽きる場所,まさにそこから、主の力が始まる。これが本文の第三のメッセージです。カナの祝いには、近くのナザレにおられた主も招かれて来ておられました。そして主は、水が入ったかめの水を、ぶどう酒へと変え問題を一挙に解決されました。ここで根本的な問いが生まれます。主の創造的な力は、どうしてあの片田舎の婚礼の家に臨んだのか。
T 主が誰であるかを知り、その力を信じる者がいた
そこに集まっていた群衆の中で、主が誰であるかを正しく知っている者はほとんどいませんでした。弟子たちもそこにいましたが、召しを受けたばかりの頃で、主の力を実地で確かめたことはまだありませんでした。しかし、その中に一人だけ、主を、主の力を正しく知り、信じている者がいました。マリアでした。マリアは、男を知らない自分の身に聖霊の力によって主が宿られたことを知っていました。だからこそ、その方が神の子であることを知り、主を全く信頼し、ぶどう酒が尽きた問題を主が解決できると信じて、主に頼りました。マリアの主に対する信頼、主の力への確信が、人間には到底解けない問題を解く糸口となりました。ここが重要です。どれほど主が私のそばに、いや私の内におられるとしても、主を全く信頼しないなら、主との関係は結ばれません。信仰だけが主との関係を可能にする原動力であり、私たちの人生の中に主の力を咲かせる土台なのです。
U 主の御言葉への従順があった
ユダヤの家々には、手や足を洗うための水がめが備えられていました。本文の家には石の水がめが六つもありました。主はしもべたちに「水でかめをいっぱいにしなさい」と命じられます。これは難しくありません。問題は次です。主はしもべたちに、その水を汲んで宴会の世話役に持って行くように命じられました。世話役が必要としているのは水ではなく、ぶどう酒です。しかし主が「持って行きなさい」と言われたのは、ぶどう酒ではなく水でした。叱られるのは目に見えています。それでも、しもべたちは言い訳せず従いました。理屈では理解できなくても、合理的に納得できなくても、信仰によって従ったとき、世話役のところへ行く途中で水はぶどう酒に変わりました。それも、世話役が驚くほどの上質なぶどう酒でした。
私たちが本当に主を知り、主の力を信じるなら、その信仰はどこでも、主の御言葉への従順の姿勢として現れなければなりません。従順の姿勢が欠けた信仰は、信仰ではなく単なる自己信念です。だから主を信じる私たちは、どんな場合でも正直であるべきです。不利益を被るとしても、御言葉の前に誠実であるべきです。そのとき、天地を創造された主の力が、私たちの人生を通して働かれます。
V.神の権威を重んじる姿勢があった
主はマリアの胎を通してこの世に生まれました。人間的に言えばマリアは主の母です。しかし厳密に言えば、人間マリアは主の「母」でありえません。主は聖霊によって生まれた神の子だからです。それでも本文は、三位一体の神である主が、肉による母マリアにどれほど丁重であったかを示しています。(ヨハネ2:3)ぶどう酒が尽きたことを知ったマリアは、その事実を主に告げました。そして本文は、主が次のように言われたと証ししています。“すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」”(ヨハネ2:4)主はマリアを「女の方」と呼ばれました。二千年前のギリシア語において「ギュネー(gunee)」は、女性に対して用いられる最も敬意のこもった呼称でした。主がマリアを「母」とは呼ばず、この呼称を用いられたのは、母に対する主の姿勢が、一般的な感覚をはるかに超えて、深い敬意に満ちたものであったことを示しています。主は「今はまだわたしの時ではない」と言われます。人々の前でメシアとして最初のしるしを行うべき「時」は、神の時として定められている、という意味です。主の「時」が神の時だとすれば、マリアが求めた「今」は人間の都合の時でした。では、主が言われた「時」とは何でしょうか。それを理解するためには、主がこの世に来られた理由を改めて確認する必要があります。主は、祝いの家のぶどう酒の責任を取るために来られたのではありません。主は、罪と死の罠から人間を救うために来られました。言い換えれば、永遠の命、永遠の神の国を与えるためです。だから主が地上で最初のしるしを行うなら、それは本来、永遠の救いへ直結するしるしであるべきでした。これが、主が最初にマリアの願いを退けられた理由です。マリアの願いは、肉体の興を助け、維持するためのものだったからです。救いのために来られた主が「最初のしるし」としてなさるには、内容も場所も時もふさわしくない、そう言える状況でした。それでも主が、マリアの願いを受けて水をぶどう酒に変える最初のしるしを行われたのは ぶどう酒が、人々のために永遠の救いの宴を備えるため十字架で流されるご自分の血を象徴するからです。すなわち主は、水をぶどう酒に変える最初のしるしを通して、十字架の死によって成し遂げる救いを、象徴的に示されたのです。だから、ぶどう酒のしるしで地上での働きを始められた主は、ぶどう酒とともに地上での働きを締めくくられます。捕らえられる夜、主は弟子たちと最後の食事をされ、杯を渡して語られました。(マタイ26:27〜28)主は、ご自分が十字架で流される血と杯を重ね、弟子たちがそれを飲むたびに救いを確認するよう導かれました。今日、教会が杯を用いて聖餐を行うのは、ここに由来します。主を信じる者にとってぶどう酒とは、主が十字架のいけにえとなって全人類を生かされた、永遠の救いのしるしなのです。主はカナの祝いの席で、肉のためのぶどう酒を与えることを通して、ただお一人の血によって備えられる霊的な宴を指し示されました。その時点では誰も本当の意味を悟らなくても、十字架の救いが完成した後には皆が理解することを、主は前もって知っておられたのです。主が「まだ時ではない」と答えられた後、マリアはしもべたちに言います。“「あの方が言われることは、何でもしてください。」”(ヨハネ2:5)マリアが主ではなく、しもべたちに命じたのは、しもべたちの前で神の子としての主の権威を尊ぶためでした。本当に神を信じるなら、神の権威を重んじる者でなければなりません。神の働きは、神の権威を重んじる者の人生を通して行われます。主は水をぶどう酒に変えられました。事情を知らずに新しいぶどう酒を飲んだ世話役は、その味に驚き、花婿を呼んで誉めます。(ヨハネ2:10)しらけて終わるはずだった祝いが、むしろ花婿への称賛で満ち、始まり以上に美しい終わりを迎えました。これは福音であるイエス・キリストがそこにおられたからこそ可能でした。このように、福音である主の内では、どんな人生も必ず「より良い終わり」を迎えうるこれが本文のメッセージです。(ヨハネ2:12)主は今日も福音を現すため、祝いの席を後にし、「しらけて崩れかけた」私たちの人生を訪ねてくださいます。過去がどうであったかは問いません。今の姿がどうであっても、それ自体が決定的な障害ではありません。福音そのものである主が、私たちの人生に美しい結びを与えるために、今この場へ私たちを招いてくださいました。
ヨハネ2:1〜12
1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
10こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
11イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
12その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。
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