2026年3月29日「私たちの痛みを担われて」マタイ27:35〜46
序−今週は受難週です。イエス様が鞭で打たれ、十字架に釘打ちにされて、苦しまれたという肉体的な痛みを想像するでしょう。しかし、実際の場面は、罵られ、裏切られ、捨てられたという心の痛みが、繰り返し記されています。それは、なぜなのでしょうか。どういう意味があるのでしょうか。
T−ののしられ、あざけられ−38〜44
この箇所は、イエス様が十字架につけられる場面ですが、鞭打ちや十字架のむごたらしさは描写されておらず、人々の罵りや嘲りを記しているのが目立ちます。まず、兵士たちがイエス様をからかっています。27〜30節。兵士たちがイエス様の服を剥ぎ取り、王が着る緋色のマントを着せ、茨の冠をかぶらせ、唾をかけ、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかいました。罪状書にも書かれました。37節。いじめのレッテル貼りのようです。ユダヤ人の騒ぎのために駆り出された兵士たちの憂さ晴らしです。からかわれ、ばかにされることは、どれほど傷つくことでしょうか。私たちもされたら、憤慨するでしょう。この時、イエス様は黙っていました。
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスを罵りました。39〜40節。頭を振るのは、相手を酷く侮辱し、あざける象徴的な仕草でした。彼らは、ただの一般庶民です。イエス様についてあまり知らない、損害を受けたこともない人々が、通りすがりに訳もなく罵っています。私たちに対しても、訳もなく辛く当たり、悪口を言い八つ当たりをする人がいます。そんなふうにされたら、とても辛いです。そんなことは嫌です。そうされながら、イエス様は黙っていました。
イエス様を十字架刑に追い込んだ祭司長たち、律法学者、長老たちは、十字架につけた後も、イエス様を嘲っています。41〜43節。民衆の人気を奪われ、自分たちの偽りもあらわとなって、彼らは、イエス様を妬み、憎みました。その嘲り「十字架から降りたら信じる」とか、「彼は他人を救ったが、自分は救えない」は、イエス様の働きを分かっていながら、わざとそういう言い方をしています。いわゆる心傷つけるような言い方です。私たちも、自分のしていることを否定され、皮肉られるのは、辛いことです。そうじゃないと言い返したくなります。それでも、イエス様は口を開きませんでした。
一緒に十字架につけられた強盗たちも、悪口を浴びせます。44節。自分たちも同じ刑罰を受けているのに、嘲るのです。刑罰を受ける腹いせをイエス様にぶつけているのです。私たちも、人からその人の辛さや苦しさをぶつけられることがあるでしょう。たまったものではありません。ここでも、イエス様は黙っていました。
イエス様をからかい、罵り、嘲る人々の姿は、罪の姿そのものです。彼らは、まるでイエス様をいじめているようです。逆恨み、鬱憤晴らしです。専門家は、いじめる側の心理について、葛藤や不安から逃れたい防衛機制のメカニズムを働かせていると言います。いじめは、他の人への怒りの置き換えだったり、劣等感を他の人への優越感で補おうとすることだったり、鬱憤を解消しようとすることのためと言われます。自分を防衛するために無意識にしてしまう行為だと言います。
ですから、彼らも痛んでいた人々なのです。兵士は辛い仕事でした。感謝されず、ユダヤ人からは敵視されていました。この時も、騒ぎで駆り出された不満がありました。エルサレムに居た民衆は、生活や人生の不満や不安で痛んでいました。以前はホサナと賛美し、イエス様に期待したけれども、期待を裏切られたという痛みもありました。ユダヤの指導者たちは、イエス様の人気のためにプライドを傷つけられたという痛み、自分たちの偽りをあらわにされた憎しみが多くありました。
私たちにも心の痛みがあるでしょうか。あるなら、無意識に他の人に、その痛みをぶつけるようにもなります。配慮のない言葉、非協力的な態度、不満や批判をあらわにすることなどに、私たちの心の痛みが表れます。そうして、他の人の心を痛めることになります。心に痛みを受けるばかりでなく、他の人の心に痛みを与えることにもなりかねません。
U−私たちの痛みを担った−イザヤ53:3〜5
そんな私たちのために、イエス様が十字架にかかってくださいました。イエス様は、人の罪の代わりに犠牲となってくださいました。Uコリント5:21。イエス様の救いによる癒しは、霊的な癒しばかりではありません。心の癒しまで与えてくださいます。イエス様は、私たちのために罵りや嘲り受けました。イザヤ53:3〜4。人には、罪によって引き起こされた心の傷があります。イエス様は自ら心の傷を受けられたので、私たちの深い心の傷を癒すことができます。誰でも、心の傷を受けることがあります。その傷が適切に取り扱われないと、心の奥深くに残り、自分を蝕む毒になり、他人を攻撃する凶器になります。他人から傷を受けたと恨み、怒りながら生きることになり、自分を傷つけ、不幸な人生となってしまいます。
イエス様に大きな傷を負っていただいた人々は、赦されたことに感激し、イエス様を信じます。癒しを体験すると、他人から傷つけられた恨みや怒りから解放されます。他人を傷つけたことを悔い改めます。エペソ4:31〜32。傷を癒された人は、他人の傷を包み、癒しを受ける助けをするようになります。今も、イエス様は、自ら痛みを経験されたセラピストとして傷ついた人々に寄り添ってくださいます。
自分のためにイエス様が十字架にかかられ、痛み、苦しまれたと信じていますか。それならば、罪の赦しと天国への命に加え、たましいの癒しが与えられています。その癒しを体験し、たましいの平安を味わってください。イザヤ53:5。イエス様の十字架を単に肉体的な痛み苦しみとして理解するだけでなく、深い精神的な意味を考える必要があります。
イエス様は、これほどまでに罵られ、嘲られ、からかわれ、さげすまれたにもかかわらず、口を開かず、黙っていました。私たちの罪を背負って十字架にかかり私たちを救うためでした。Tペテロ2:24。私たちが受ける心の痛みを受けるためです。他人に痛みを与える罪を赦すためです。罪人たちを愛しているので、何も言わずに罵りと嘲りを受けられたのです。
私たちも、罵りや嘲りによって心に傷を受けることもあります。体の痛みは一時的ですが、そのままでは心の痛みはずっと残ります。イエス様は、私たちの痛みと比べ物にならないくらい痛みを体験されました。私たちのために十字架にかかり、罵られて、嘲られたイエス様の姿を思う時、私たちの痛んだ心が慰められ、癒されるようになります。
V−見捨てられた叫び−46
それまで黙っていたイエス様が、大声で叫ばれました。46節。なぜ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたのでしょうか。それは、神から見捨てられたからです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、絶望的な魂の叫びや不信の怒りの叫びではありません。信頼する神から見捨てられた心の痛みの叫びです。
人が見捨てられた時の孤独と悲しみと喪失の痛みは、どれほど大きいことでしょうか。相手の心に自分の不在を感じる時、見捨てられたと思います。見捨てられた家族、職場から見捨てられた者、友人から捨てられた人は、孤独と悲しみ、痛みを覚えます。叫んだり、泣いたり、人を恨んだり、自分を責めたりします。
イエス様の捨てられた痛みは、敵対する者から捨てられただけではありません。ホサナと歓迎していた民衆から見捨てられました。愛する弟子たちからも裏切られ、捨てられました。そして、信頼していた神から見捨てられました。だから、叫ばずにはいられませんでした。
なぜ、見捨てられたのでしょうか。私たちの身代わりとなられたからです。私たちの罪を背負って、代わりに十字架にかかり、叫ばれたイエス様を思う時、私たちの罪の大きさを覚え、罪の責任を考えます。罪の値を支払うことがいかに恐ろしいか悟らなければなりません。
イエス様は、私たちのために十字架につけられて、罪のための裁きを受けました。十字架刑は、ものすごい痛みが続きます。それに加えて、罵られ、嘲られた痛みもありました。しかし、痛みの中で最も大きな痛みは、肉体の痛みでも、罵りや嘲りを聞く痛みでもなく、見捨てられた痛みです。しかし、それは私たちを救うための叫びであり、赦しと愛の叫びでもあります。イエス様の苦しみは私たちのためだからです。
私たちも、誰かから捨てられた悲しみ、痛みがあるでしょう。しかし、イエス様よりも見捨てられた痛みの人はいないでしょう。イエス様は、私たちを救うために、人からだけでなく、神からも見捨てられました。ですから、人から見捨てられることで落胆しないでください。見捨てられたら、イエス様を覚えてください。私たちが見捨てられたと感じて痛んだその瞬間、イエス様の十字架のゆえに神の愛を覚えることができます。苦難と絶望で暗闇を感じる時、イエス様が叫ばれたことを覚えてください。
見捨てられる経験は、自分の存在の根幹が揺らぐ苦しい経験です。しかし、神は捨てられた人々を用いました。ヨセフ、モーセ、ダビデ、パウロも人々から見捨てられました。かつて人から見捨てられた人は、人々の痛みや苦しみをよく知っているからです。そして、神の愛を受ける者が、神の愛を伝えることができます。イザヤ53:3〜5。
マタイ27:35 彼らは、イエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
27:36 それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。
27:37 彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。
27:38 そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
27:40 「神殿を壊して三日で建てる人よ。もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
27:42 「他人を救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
27:43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
27:44 イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
27:45 さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
Uコリント5:21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
イザヤ53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。それなのに、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
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