小グループで聖書を学ぶ

25 と言ってはならない(イザヤ56:1〜8)

「心の門を開いて」

 「感情はすぐに脳をジャックする」という本があります。感情を正しく認知し、感情に振り回されないように勧めています。確かに捕囚の民も、そうでした。捕囚となっていた民は、自分たちは何もかも失った者だ、望みのない者だ、何の力もない何もできない者だという思いに囚われていました。そして、絶望し、自分を否定的に見ていました。そのような者にどんなメッセ−ジが与えられているのでしょうか。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 絶望し落胆していた捕囚の民の中でも、もっとも自分を否定し、自分を悲観していた人々が、今日の箇所に登場しています。どんな人々ですか。自分について、どんな考えになっていますか。
・3節/
・申命記23:1,3/

2 主に連なる異国の民とは、聖書の神様を信じて礼拝していた人々でしたが、異邦人として扱われ民の集まりから除外されることをひがんで「私は民から切り離される」と悲観しました。宦官は同じ神の民なのですが、バビロンの王宮に仕えるために肉体的な障害を与えられていたことで民から否定され、自分を役に立たない者と卑下していました。私たちも、自分の境遇やその時々の状況から受けた感情のために、自分を否定したり、悲観したりすることがありませんでしたか。



3 主に連なる異国の民や宦官が自分を否定したり、悲観したりすることに対して、神様は何と命じられていますか。自分を否定したり、悲観したりする私たち自身も神様から「そう言ってはならない」と言われたら、どう思いますか。どうしようとしますか。
・2節/
・Tサムエル16:7/ (参考)

4 主に連なる異国の民に「私は見捨てられる」とひがんで言ってはならない、宦官も自虐的に「私は枯れ木だ」と言ってはならないとなぜ命じられたのですか。これは、どんなことを預言したことですか。
・1節/
・マタイ3:1~2,11/

5 イエス様によって救われる以前の私たちは、どういう者でしたか。私たちに対して、救われるための何か条件や求められることがありましたか。私たちは、何によって救われたのですか。
・エペソ2:11〜13/
・エペソ2:5,8/

6 私たちが救われたのは神様の一方的な恵みの祝福でしたが、もう一つの祝福があります。救いの恵みに応答して働き、労苦して得られる祝福です。この「幸いな人」というのは、祝福された人という意味です。どんなことをする人が祝福を受け、幸いな人なのですか。
・2節/
・詩篇1:1〜3/(参考)

7 2節の勧めは、自分に失望し、何も期待できず、否定的悲観的思いに囚われていた者に、新しいことを考えさせてくれます。絶望したり、自分を否定したりするのでなくて、神の民として神様に礼拝をささげ、御言葉を行いなさいと言うのです。自分の外見や境遇のために心配したり、落胆したりする時必要なことは、神様に素直に信頼して、御言葉に忠実に聞き従っているかと省みることです。感じることを分かち合ってください。



8 バビロンで捕囚となっていた民が周りの人々と違うのは、安息日を守ることでした。捕囚の境遇でも、安息日に礼拝をささげることが希望でした。厳しい世でも、安息日を守り、礼拝をささげて神の民として生きて行くのが、喜びであり、力となったからです。他国の者も、宦官も、神の民として礼拝をささげ、御言葉を守って生きるなら、どんな祝福を受けると言われていますか。
・4〜7節/


9 絶望と不安の多い世にあって、信仰の交わりには平安と楽しさがあります。神様を礼拝するところに希望があり、祝福があります。主の日に教会に集まって礼拝し、賛美をささげ、御言葉で恵みを受け、聖徒が互いに祈り合い、交わり、天国の前味を味わうのです。そのように信仰生活をしたら、どうなると約束されていますか。このような約束を知って、あなたはどのような信仰生活をしようとしますか。
・8節/
・エペソ1:10〜11/(参考)

「命の実を刈り取ろう」

 安息日は、今ではイエス様の復活を記念した主の日です。私たちが主の日を喜び、感謝して礼拝をささげ、日々御言葉に真摯に生きて行くなら、世の人々もその生活と姿を通して、イエス様の救いに導かれるようになります。今日の学びを通して与えられた導きや気付きを分かち合い、互いのために祈りましょう。イザヤ56:2〜3。  

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