小グループで聖書を学ぶ

27 神が分かれば自分が分かる(イザヤ57:14〜21)

「心の門を開いて」

 カルバンの基督教綱要のはじめに、「神を知る知識と我々自身を知る知識は結び合っている」とあります。これは、神が分かると自分が分かるということです。神が分からないと自分のことも分からないということです。今日の箇所を通して、神を知って自分自身を知ることを学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 今日の箇所には、神様がどんなお方であるかが教えられています。神はどんな方か御言葉から見てみましょう。そのような神様の存在の前に、人は自分がどのような者だ分かりますか。
・15節前半/
・創世記18:27, イザヤ6:5/(参考)

2 「聖なる」というのは、区別される、分離されるという意味です。神様は、極めて尊いお方、永遠の存在であり、誰も近づくことも触れることもできない、すべてのものからかけ離れた存在です。この偉大な神を知るならば、人はどうならざるを得ませんか。
・15節後半/
・/

3 聖なる神を知らない場合、ある人々は聖書の神について自分の都合のよい存在に思ってしまいます。勝手なお願いをし、神の前にへりくだることがありません。極めて尊い聖なる神を知らなければ、私たちにある自己中心性や高慢を振り払うことはできません。カルバンが綱要のはじめに、「神を知って自分自身を知る知識こそ、人が最も必要とする本質的な知識だ」と教えているということをどう思いますか。



4 神の前にへりくだる者にとって、人が自分をどう評価するかは重要でなく、自分に対する自分の評価も重要ではありません。私たちが心砕かれた、へりくだった者であるなら、神様が私たちとともに住み、私たちを生かしてくださるからです。神様は、神様になお背いて、自分の思う道を行く者に対して、どうして下さる方だと教えていますか。
・16〜18節/


5 人との関係において、はじめは勝手なことをしている者に対して、怒りを留めて、受け止めます。それでも悔い改めず、勝手気ままにするなら、怒り、叱責するでしょう。勝手なことを繰り返すなら、見捨てるでしょう。しかし、神様は、いつまでも怒り続けないのです。見捨てないのです。いや、それどころか、癒して、導いて、慰めてくださるというのです。この神様の対応に感じることは何ですか。



6 神様は、彼らがまだ勝手気ままを続け、なお背いて、自分の思う道を行くのに、癒し、導き、慰めてくださるというのです。このように、神様は、頑なで罪の中にいた私たちに対して、どうしてくださいましたか。その神様の御業を知ったら、私たちはどうせざるを得ませんか。
・ローマ5:8/
・使徒3:19/

7 なお背いて、自分の思う道を行く者を癒して、導いて、慰めてくださる方が神様だと分かったならば、もうただただ感謝して、悔い改めるしかありません。勝手な歩みをやめて、立ち返るしかありません。神様は、悔い改めて、立ち返る者に何を与えてくださる方だと教えていますか。平安がない状態はどうなのか、どんな人に平安がないのでしょうか。
・19節/
・20〜21節/

8 悪者とは、神に背を向けて、自分の思い通りの道を行く者のことです。平安でない状態は、まさに荒れ狂う海のようです。「その水は海草と泥を吐き出す」とは、自分勝手な道に向かって頑張っているのに、平安が得られないので、他人に対して悪口や悪態が泥のように吐き出されるということです。ですから、平安を与えてくださる神を知って、神に背を向けて、自分の思い通りに歩む自分を知って、どうするようにと招いていますか。
・14節/
・使徒3:19/

9 なおも神に背いて、自分の思う道を行く者も、平安を求めています。心の平安、平安な生活を求めて、自分の思う勝手な道に向かって行き、神に背を向けてしまうのです。そういう自分であることが分からないのです。自分勝手にできることで平安が得られるわけではないのです。世が与える平安と神様が与えてくださる平安は違うからです。今日の箇所を学んでより神を知ったことで、どんな自分を知るようになりましたか。
・ヨハネ14:27/

「命の実を刈り取ろう」

 「わたしは唇の実を創造する者」とは、私たちに賛美をすることを神様が与えてくださったということです。ヘブル13:15。悔い改めて神様に立ち返って罪を赦され、癒し、導き、慰められるなら、賛美が溢れて来ます。平安ならば、賛美が実ります。砕かれた人、へりくだった人は、感謝と喜びで賛美します。気付きや適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。

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