小グループで聖書を学ぶ
42 私たちは粘土で、主は陶器師です(イザヤ64:8〜12)
「心の門を開いて」
人は時に、これも駄目あれも駄目、こんなことが起こりあんなことも起こったというように次々と問題が起きたり、事がうまく行かなくなると、もう嫌だ、駄目だと絶望したり怒ったりすることがあります。苦難が続く中で神の民がどうしてそうならなかったのかを見てみましょう。
「御言葉の種を蒔きながら」
1 エルサレムに帰還した民は、都の姿を見て、神様に訴えています。周りの民族の妨害や嘲りもあり、再建へのためには自分たちは非力だ無力だという思いにもとらわれました。その訴えから、帰還した民の感情がどのように伝わって来ますか。
・10〜11節/
2 心が荒廃して、なにもかも駄目だ、まったく望みがないという嘆きがあふれています。エルサレムの荒廃だけでなく、現代の聖徒たちの人生にも、このようなことが起こる時があります。仕事がうまく行かなり、人間関係も難しくなった。家族に問題が起こり、体も具合が悪くなった。そのように次々と問題が起こり、なにもかも辛い状況になったら、人は、どんな気持ちになると思いますか。あなたはどうですか
・Tサムエル1:10/(参考)
3 次々と問題が起こり、なにもかも辛い状況になったら、人は、気持ちが切れてしまうでしょう。12節は一見、帰還した民の気持ちがどうなっているように見えますか。しかし、行間を感じながら読むと、どう思いながら言っているように感じますか。
・12節/
・/
4 12節を読むと、一見帰還した民の気持ちが切れて、怒って抗議しているように見えます。しかし、神の民は、気持ちが切れそうになりましたが、そうではありません。これも63:15,17のような逆説的な祈りです。反語的だとすれば、その後にどんな文章が来ることになりますか。
・63:15,17/
・ヨブ23:6,ガラテヤ1:10/(参考)
5 厳しい状況下にあった神の民は、「神様が激しく怒っておられるのではないか、いつまでも咎を覚えているのではないか、自分たちに目を留めておられないのではないか」と思いました。それで、9節のように赦しを乞うて祈っているように感じられます。しかし、神への信頼の中でこの祈りをしています。そうだとすると、どんな思いで祈っていることになりますか。どんな表現が続くと思いますか。
・/
・/
6 赦していただく確信をもって、祈ることができるのも、次々と起こる問題で痛み苦しんでも、神様の助けや癒しを確信して逆説的に祈れるのも、神様への信頼があるからです。その元となった聖書の教えが8節に宣言されています。神様と人との関係はどうですか。その例えが意味することは何ですか。
・8節/
・創世記2:7/
7 私たちは、粘土です。何もできない粘土です。罪のために捨てられ踏みつけられてしまうただの土くれにすぎません。しかし、イエス様の救いによって、どのようにされたのですか。陶器師である神様は、私たちをどうしてくださるのですか。この御言葉を黙想し味わうならば、どんな思いになりますか。
・Uコリント5:17/
・エレミヤ18:4/
8 罪のために自分が神によって造られた存在であることが分からなくなるのです。自分が神になりますから、土くれに過ぎないことを忘れてしまいます。そして、時には12節の表現のように神様に文句を言い、怒りをぶつけるのです。それは、どんな姿だと教えていますか。これを読んで、私たちは、どうすることが必要ですか。
・イザヤ29:16/
・/
9 8節に「私たちはみな、あなたの御手のわざです」とあります。すなわち、私たちは神の作品だということです。神の作品なのに、駄作だ、失敗作だと言えるでしょうか。神様は、私たちに対して何と言われていますか。このように神様の恵みと愛を受けている者として、どのように応えますか。
・イザヤ43:4/
「命の実を刈り取ろう」
神様は、罪のために滅んでしまうたましいを再びご自分の民とするために、その犠牲として御子イエス様を十字架に渡されました。私たちは、足で踏みつけられる土くれ、粘土です。しかし、陶器師が粘土で制作中の器をこわし、気に入ったほかの器に造り変えてくださるように、神様の目的によって用いられる尊い器と造り変えられ、それぞれにふさわしく用いられます。学びを通して与えられた気付きや決心を分かち合い、互いのために祈りましょう。Uコリント5:17。
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