小グループで聖書を学ぶ

45 主が目を留める者(イザヤ66:1〜4)

「心の門を開いて」

 65章では、神様が祝福を与え、幻を見せてくださるということでしたが、66章では、誰にそのような恵みと約束が与えられるか、どのような信仰を持った者が神様に喜ばれるかについて教えています。それはどんな人がそうなのか、どんな人がそうではないのか対比されています。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 捕囚の民は、ビジョンを見せていただいて、励ましを受けて再建に取り掛かるようになるのですが、まるで神殿再建に反対されているようなことを言われています。神様は、民に対して、どういう意味で言っておられるのですか。何を望まれて言われたのですか。
・1〜2節前半, T列王8:27/
・ヨハネ4:24/

2 神殿は神様の住まわれる所ではなく、神様の臨在を覚える場所にすぎません。神殿は当時の建物の中で最も素晴らしいものであり、民の誇りでした。彼らは、神殿の祭祀を勤勉にしても、神様とは全く無関係に生きていました。人々の信仰、礼拝は形骸化し、神様に背を向け、偶像を拝むようになってしまいました。その結果どうなったのですか。
・U歴代36:19 /
・エズラ5:12/

3 帰還して、神殿を建てることができたら、自分たちは安泰だ、自分たちは神様に認められると思っていた人々がいました。神殿再建に向かおうとする帰還の民に対して、神様は、捕囚の民の間違った信仰観、礼拝観を指摘して、正しい信仰観、礼拝観を持たせようとされたわけです。後の時代、イエス様が来られた時、神殿は、どのようになっていましたか。イエス様は、その神殿について、何と預言されましたか。
・ヨハネ2:13〜15/
・マルコ13:1〜2/

4 現代でも、建物中心の教会になる危険はあります。教会堂が建つことで教会が形成されたように考えてしまいます。大事なことは、そこでどのような礼拝をささげる聖徒たちになるのか、どのような信仰の聖徒となるかなのです。神様に喜ばれない、祝福を受けられない人々の姿は、どのようですか。どんな特徴がありますか。
・3〜4節/
・マタイ23:25,28/(参考)

5 捕囚前の民は、神殿で一生懸命祭祀をささげ信仰的な姿をあらわしましたが、神殿の外に出ると、まるで神様がおられないような振舞いとなっていました。現代でも、敬虔そうな賛美と礼拝をささげるものの、それが終われば噂話をしたり、悪口を言ったり、建物を出ては肉の行いをする姿があります。私たちも振り返ってみましょう。



6 神様がささげ物をし、祭祀するように求めたことはありません。ただ民の心を求めました。悪いことを言い、行いながらささけ物をしても、何の価値もなく、むしろ忌むべきものだというのです。そんな民の特徴は何ですか。イエス様が話された例話を参照してみましょう。その姿からどんな弊害が生じると思いますか。
・ルカ18:10〜14/
・箴言16:18/

7 神様は、パリサイ人のような人々を嫌悪して、退けると言われました。このような人々のことは「自分の道を選ぶ」者と言っています。神様の祝福を受け、ビジョンを見せていただける神の道を行く民の姿が教えられています。その一つは「貧しい者」です。それは、ただ神に頼る人のことです。自らの欠けを覚えて神様に頼る謙遜な人のことです。あなたは、どうですか。欠けや弱さがあるからこそ、謙遜に神様に拠り頼んでおられますか。
・2節後半/
・マタイ5:3/

8 「霊の砕かれた者」とは、悔い改める者のことです。イエス様の例話でパリサイ人と比較された取税人は、どんな態度でしたか。そのために、神様はどうされましたか。詩篇では、どのように言われていますか。あなたは、どんなことで心を砕かれましたか。その経験を分かち合ってみましょう。
・ルカ18:13〜14/
・詩篇34:18,51:17/

9 「わたしのことばにおののく者だ」とは、御言葉に聞き従う者を言います。私たちに与えられた御言葉に対して、自分の見解を言うのではなく、アーメンと従うべきです。私たちは、御言葉に対して、「それは難しいとか自分の思いとは合わない」と言うことはないでしょうか。あなたは、御言葉を聞いてどうしますか。
・詩篇103:20,ヨハネ8:47,/

「命の実を刈り取ろう」

 「自分の道」とは、「神様の道」と対照的な道で、自分勝手に自分の望むままに歩む道です。神様から退けられる者も、祝福を受けビジョンを見せていただける者も同じ神の民です。私たちは神に拠り頼み、謙遜に悔い改めて、御言葉に聞き従い、自分の道ではなく、神様の道を選ぶことを願います。学びを通して与えられた気付きや御言葉に対する決心を分かち合い、互いのために祈りましょう。ヨハネ4:24。

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