小グループで聖書を学ぶ

24 飢饉が起こったので(創世記12:5〜20)

「心の門を開いて」

 私たちは、信仰を持って生きようとしているのに、問題に出会い、困難に陥ることがあります。信仰で生きているのに、どうしてこんな目にあうのか、信仰しているのになぜ困難に陥るのかと悶々とします。そのような時、私たちはどのようになりやすいのでしょうか。神はどうしてくださるのでしょうか。アブラハムの姿から学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 ハランから出発したアブラハムは、長い道のりを旅してついにカナンの地にやって来ました。カナンに来てみると、そこにはカナン人が住んでおり、不安や恐れを抱いたようです。そんなアブラハムに神は何と言われていましたか。アブラハムは、それに応答して、何をしていますか。そのことから、信仰的にはどうだったと言えますか。
・5〜8節/


2 「祭壇を築く」とは、礼拝をささげたということです。「主の御名を呼び求めた」とは、主を賛美したということです。この時までは、アブラハムは信仰的に生きようとしていたのです。ところが、カナン南部の乾燥地帯であるネゲブまで進んで来ると、何が起こりましたか。そのことで、アブラハムの気持ちはどうなったと想像できますか。
・9〜10節/
・ヨシュア7:7,イザヤ58:3/ (参考)

3 アブラハムは、「神の召しに応えてカナンに来たのに、信仰で生きようとしていたのにこの地で飢饉にあい、苦しむなんて、なぜだろう」と思ったでしょう。私たちも問題が起こり、思うように行かないと、「信仰をもって生きようとしているのに、なぜ、どうして」と悶々としたことはありませんか。そんな時、忘れてはならないことは、どういうことですか。
・Tコリント10:13,Uコリント1:8〜9 /
・詩篇119:71,Tペテロ4:19 /

4 問題や苦難に遭った時大事なことは、それをどう受け止めるのか、どう対処するのかということです。聖書から学ぶことは、苦難にも祝福が隠されており、脱出の道も備えられているということです。しかし、苦難が来る時、自分の思いで判断し動くなら、苦難はひどくなり、人生が混乱することになります。飢饉に遭ったアブラハムは、どうしましたか。その判断は当然のことですか。アブラハムにとって問題となりませんか。
・10節/

5 カナンを離れてエジプトに下ることことは、神を離れることになります。神がいなくてもいいという危険があります。エジプトに下ったアブラハムは、神のいないような姿となってしまいました。どんなひどいことを画策していますか。その結果、どうなりましたか。それは、どういうことを意味しているのですか。
・11〜13節/
・14〜15節/

6 神がともにおられるカナンを離れて、恐れを覚えたアブラハムは、自分の保身のために、自分の妻を犠牲にしようとするほど卑怯な人、嘘つきになってしまいます。神が私たちの中からいなくなるようになれば、恐れや不安の中で、私たちの言動も狂って来ます。自分勝手になり、罪をなすことにもなりかねません。そんな失敗がありませんでしたか。



7 このままでは、「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする」という約束が反故となってしまいます。神はご自分の計画遂行のために、どうされましたか。その時、ファラオの口を通して、アブラハムにどんなことを覚えさせていますか。世の人々の口を通して、私たちの過ちを覚えさせてくれることがあります。どんことでしたか。
・17〜20節/
・18〜19節/

8 最後の20節の「所有するすべてのもの」とは、妻と交換に所有したものです。嘘をつき、妻を犠牲にして得たものです。不義によって得たものは、その代価を支払うことになります。この時得たもののために、その後起こることを確かめてみましょう。そこから思うことを分かち合ってみましょう。
・創世記13:6〜7/
・創世記16:1〜2/

9 苦難の時に不信仰で対処すれば、さらに苦難に遭うことになりかねません。苦難に遭った時は、自分の考えと自分の方法ではなく、神に聞いて、聖書的に行動することが必要です。あなたの人生に飢饉のようなことが起こるなら、どうのようにして生きますか。
・伝道者7:14/(参考)

「命の実を刈り取ろう」

人生の飢饉である苦難が訪れたら、すぐに神の御前に出て、その意味を理解して、信仰で対応しなければなりません。悔い改めが必要ならば悔い改め、鍛錬ならば忍耐して隠れている祝福を見つけるのです。苦難自体が問題なのではありません。苦難をどう受け止め、どう対処するかということです。信仰の原則で対応することを願います。学びを通して与えられた適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。伝道者7:14。

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