小グループで聖書を学ぶ
21 はじめにことばがあった(ヨハネの福音書 1:1〜5)
「心の門を開いて」
主の御前にまっすぐ立つとは、いったい何を意味するのでしょうか。それは、今この瞬間、私と共にいてくださる主の御言葉の前に正しく立つということです。御言葉の前に立つ時、私たちは初めて真のクリスチャン、すなわち自分を否み、自らの十字架を負う主の弟子となることができます。
「御言葉の種を蒔きながら」
1 この御言葉こそ創造主なる神であり、御言葉が地上に来られた主イエス・キリストです。この御言葉だけが私たちの自己中心を打ち砕き、かたくなな心を裂き、新しく生まれさせてくださいます。ですから、主を信じていると言いながらも、御言葉の前に立ち、委ね、従わなければ、真のクリスチャンにはなれません。
この「御言葉の前に立つ」ということを、あなたはどのように受けとめるでしょうか。
・ヨハネ1:1〜3/
・ヘブル4:12〜13/
2 最初の人間であるアダムとエバが堕落した理由は、社会構造の問題でも、貧しさの問題でもありませんでした。彼らはエデンの園という最も恵まれた場所にいました。しかし、その豊かなエデンから堕落したのです。理由はただ一つ、神の御言葉を退けたからです。私たちはこの姿から、どのような警告を受け取るでしょうか。
・創世記2:16〜17/
3 では、失われたエデンの回復はどこから始まるのでしょうか。御言葉を失ったことが問題の始まりであったなら、解決もまた御言葉しかありません。
御言葉を取り戻し、御言葉の前に立ち、御言葉に従うなら、すべての問題は終息し、回復が始まります。
回復と御言葉の関係について、あなたの生活と結びつけるとどのように見えてくるでしょうか。
・ヨハネ1:1〜3/
・第一コリント8:6/
4 すべては「初めに神が天と地を創造された」という宣言から始まります。
創造主を知ることは神を知る第一歩であり、私たちを造られた神は深く愛し、全能ゆえに壊れたものを回復し整えることがおできになります。被造物である私たちは御言葉に従って生きるべき存在であり、その御言葉こそ人生の取扱説明書です。創造主である神は同時に裁き主でもあり、ご自身の作品を正しく判断されます。
この真理から離れると、「必要な時だけ神を求める信仰」に堕してしまいます。あなたの信仰は今、この神の視点からどう見えるでしょうか。
・創世記1:1/
5 天地を創造された神こそ御言葉です。御言葉が神であり、神が御言葉であり、御言葉が創造主であられます。この御言葉なるお方を、私はどのような態度で受けとめているでしょうか。
・ヨハネ1:1〜3/
6 創造の御言葉は命の御言葉、光の御言葉です。命を造られ、光を呼び出された御言葉が、命であり光であるのは当然です。御言葉という光は、人間の闇の中に照らされました。しかし、闇にとどまる者たちはその光を受け入れず、自分の思いこそ真理だと錯覚してしまいます。創造主の御言葉であることを信じようとせず、光よりも自分の欲や恐れに従うそれが闇にとどまる者の姿です。
ここで描かれる「闇にとどまる者」の姿に、自分のどの部分が重なって見えるでしょうか。
・ヨハネ1:4〜5/
7 御言葉が語る「闇にとどまる者」の姿が、歴史の中でどのように現れたのかを見てみましょう。ユダヤ人の王のご誕生を聞いた時、ヘロデ王は「動揺」し、不安と恐れ、混乱に包まれました。この言葉には「心がかき乱される、恐れに支配される」という意味があります。本来なら光であるメシアの訪れを喜ぶべきところを、ヘロデは自分の権力が脅かされると感じ、恐れから幼子を殺すという罪へと進んでしまいました。光は闇の中に輝いているのに、闇にとどまる者はその光を喜ばず、自ら拒みます。
このヘロデの姿から、あなたはどのようなことを教えられるでしょうか。
・マタイ2:2〜3/
8 光を受け入れる者はどのような人なのでしょうか。マリアは御使いの告げた救い主の誕生を信じて従い、ヘロデとは対照的に光を受け入れました。マリアはこの御言葉を真実として受け取り、主が御言葉そのものだと悟っていたため、迷わず従うことができました。
マリアが御言葉を喜んで受け入れた理由は、どの点にあると思いますか。
・ルカ1:37〜38/
「命の実を刈り取ろう」
主が来られる時、闇にとどまる者は恐れと混乱に支配されますが、光を受け入れる者はマリアのように御言葉に従い、主を喜び迎える者となります。
私たちの状況がどれほど不安定に見えても、御言葉は真理であり、光であり、私たちを導く唯一の道です。私たちも自分の内にある闇を主の御前に差し出し、光であるキリストを喜び迎える歩みをしたいと願います。今日の学びを通して与えられた気付きや適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。
・ヨハネ1:1〜5。
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